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礼拝メッセージより
「混沌の中の希望」 2014年6月1日
聖書:創世記1章1節-2章4節前半
宇宙
宇宙に関するテレビ番組を見るのが好きだ。子どもの頃から宇宙に関することに興味があった。宇宙の話しになると何万光年とか何億光年とかいうのがよく出てくる。小学生の時、家族が寝静まった夜中に宇宙のことを考えていて、宇宙のなにもない空間に浮かんでいるような気持ちになって、何もつかめない、頼るものも何もない、ひとりぼっちという感じがして、急に恐くなってしばらく膝を抱えて丸くなっていたことがあった。太陽系の大きさはこれくらい、なんて話しをする時には自分が太陽系を外から眺めているような気になっているけれど、実はその中に自分がいる、自分がそこに生きている、ということを思い出す、するととても不思議な感じがする。
少し前、太陽系の大きさを実感したくて、地球の直径を1mmとして計算すると太陽は10cm位に、水星は0.4mm程、金星は地球と同じくらいで1mmほど、火星は0.5mmほどになった。その大きさで太陽からどれ位離れてるのかというと、水星まで約4.5m、金星まで約8.5m、地球まで約11.7m、火星まで約17.9mだった。
数字だけでは分かり辛いので、教会の講壇の後ろに10cmの太陽を描いた紙を貼って、ほとんど点でしか無い水星と金星と地球の紙をその距離に貼ってみた。水星も金星も地球も1mmもないのでほとんど点でしかないけれど、その割りにはえらく太陽から遠くてびっくりした。火星は教会の玄関の外になった。ちなみに惑星で一番遠い海王星はその縮尺でも太陽から350m余り離れていることになる。教会から市役所くらい離れて4mmくらいの海王星が回っているという感じ。そんな大きな太陽系の中に、一番大きい木星でも11mm程しかない、そんな星たちが点在しているということで、太陽系ってのはすかすかだったのでびっくりした。
太陽から地球までが光でも500秒程、8分余りかかる。その調子で光がずっとずっと進んで行くと、1時間で80mくらい、1日で2kmくらい、1年で700kmくらいかな。一年進む距離が1光年なので、地球が1mmだとすると1光年は700kmくらいだから、東京辺り。1光年でもそんなに広いけれど、太陽系のある天の川銀河の直径は10万光年もあるそうで、1光年の10万倍、東京までの10万倍なんて訳が分からない。遠くの銀河は100億光年以上離れているそうだけれど、一体どのくらい遠いのか考えただけで頭がくらくらしそう。そして自分達はその中の1mmの地球上で生きている訳で宇宙のあまりの大きさに呆然としてしまう。
創世記
聖書の最初に創世記がある。神が天地を創造したことが書かれている。地というのは今で言えば地球ということになるんだろうけれど、天とはそうすると宇宙ということなのかな。当時は宇宙の大きさなんて分からなかっただろうし、そもそも地球が丸い星だと言うこと自体も多分分かっていなかっただろう。だから天と地という言い方をしたんだろう。天が上にあって、下が地という上下関係しかなかったんだろうなと思う。
初めて人工衛星に乗って宇宙に行った飛行士が、どこにも神はいなかったと言った、ということを読んだことがある。創世記は神が天地を創ったと書いてあるけれど、神はどこにもいないじゃないかと言いたかったのかな。
しかし創世記は科学的な書物では無い。天地は文字通り創世記に書かれた通りに創られたと思う必要はないだろう。アメリカの一部の教会は聖書に書かれた通りに天地は創造されたと信じているそうだけれど、聖書は科学的な文書ではない。そうではなく、神と世界、神と人との関係を現すものだ。
科学は目に見える現象を解明していく。宇宙はどれくらいの大きさで、どれくらい星があってとか、あるいは生物はどのように成長してとかというようなことを解明していく。
しかし聖書はそれとは別の見方、いわば目に見えないところというか、この世界はなぜ存在するのか、人間はなぜここにいるのか、自分はなぜここにいるのか、というような科学とは別の切り口で書かれているものである。
だから聖書の創造物語を科学的にもこの通りだったのだ、という必要はないだろう。そもそもそんなことを説明しようとはしていない。
バビロン補囚
創世記がまとめられたのはバビロン補囚の時代だそうだ。
ユダヤ人たちはかつて神に導かれて、奴隷であったエジプトを脱出し約束の地へやってきた。どうにか自分たちの土地も確保した。ところがやがて自分たちの国は滅ぼされ、国の主だった者たちはバビロニアという国へ連れてこられてしまった。
そのバビロン補囚の苦しみの中で彼らは自分たちの過去を振り返った。自分たちの信仰を振り返った。自分たちはどういうものなのか、どうしてこんなことになってしまったのか、国が滅ぼされてしまうと言う極限状態の中で彼らはもう一度考えなおしたのだろう。神はどうして助けてくれなかったのか、神は無力なのか、それとも自分達が間違っていたのか、創世記を初めとする旧約聖書はそんな自分たちの反省の書でもあるようだ。
ことば
創世記の創造物語を見ると、神は言葉によっていろんなものを造ったと書かれている。つまり天地はたまたまできたのではなく、神の意志によって出来たと言うことだ。光も水も生き物も星も人間も、神が造ろうとして造ったというのだ。科学的にみればあらゆるものは偶然できたということになるのだろうが、聖書では、信仰的にはあらゆるものは神の意志によってできたというのだ。それぞれに意味と目的があってできたということなのだろう。
私たちひとりひとりも何かの目的のために造られたのだ。神によって造られた、だから神を信じる、神に聞いていく、神との関係を持って生きていくのだ。私たちが今ここにいるのはその神に造られたからだ、だから神に聞いて生きていくというわけだ。
自分達の神とはそういう神なのだ、自分達が存在しているその根拠となるような神なのだということだ。
国を滅ぼされて、外国に連れてこられてしまったユダヤの人たちはそのことを忘れて、見栄えが良くていかにも自分の役に立ちそうな神だったのかもしれないが、そっちの神の方を信じるようになってしまった。自分たちが闇の中にいるようなことになってしまったのは、本当の神から離れてしまったからだ、と気づいたのだろう。そこで本当の神に帰ろうとしてこの創世記をまとめたようだ。
光あれ
光あれ、という言葉から創造は始まったが、その前には混沌と闇があった。バビロン時代のユダヤ人にとってその時代はまさに混沌と闇の時代だったようだ。
自分たちが築いてきたものが全部壊されてしまった、これから一体どんなことになるのかも分からない。将来の希望も持てない、そんな時代だった。
しかし彼らはそこでもう一度神を見上げた。光あれ、という言葉によって光を造る神、自分たちの神はそんな神だった、言葉によって天地の全てを秩序正しく造っていくそんな神だった、そのことを思い出させるための創造物語なのだろうと思う。
良し
この創造物語の中には良し、という言葉が何回も出てくる。神が良しと言われる世界を創ったというわけだ。もともと神が創られた世界は良いものだった。自分達も良いものとして創られた。
なのに今苦しみにあるのは、そして混沌の状況にあるのは、自分達が間違ったからだ、間違った場所にいるからだと分かったのだろう。本来自分達がいるいるべきはここではない、神が創られた自分達がいるべき場所へ帰ろう、本来神がつくられたよい所へ帰ろう、神との正しい関係の中で神と共に生きる場所へと帰ろう、そんな希望を持ったのではないかと思う。
私たちの世界も混沌の世の中だ。社会も、家庭も、教会も混沌かもしれない。私たちの人生そのものが混沌かもしれない。しかし混沌から良い世界を創り出す、私たちの神はそんな神なのだ。
神は宇宙空間に出れば見つかるようなものでもないし、望遠鏡を覗いても見えはしない。しかし神は見えない所で私たちを愛してくれている。支えてくれている。
このやたらでかい宇宙の中に浮いている小さな地球の上で私たちは生きている。しかし私たちはただひとりぼっちで真っ暗な宇宙の中をさまよっているわけではない。このでかい宇宙を支配しているというこの神が、このちっぽけな地球のちっぽけな私たちひとりひとりを見つめてくれているというの。私たち一人一人を大事に大切に思ってくれているというのだ。それってすごいなと思う。そして嬉しく思う。