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礼拝メッセージより
「聞いてくれ」 2014年5月25日
聖書:マルコによる福音書10章46-52節
憐れんでください
エリコ−エルサレムの東北東27キロ位。もうすぐエルサレムというところ。11章ではイエスはエルサレムに入っていく。過越の祭が近づいている時期で、大勢の人がエリコを通ってエルサレムに向かっていて賑わっていたのではないかと思われる。
そのエリコに盲人で物乞いをしているバルティマイがいた。ティマイの子だと書いてあるように、バルとは子のこと。
このバルティマイはイエスがやってきたと聞いて叫びだした。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。ダビデの子と言ったのは、イエスが旧約の時代から約束されていた救い主であると思っているということらしい。
彼はイエスの噂をかねがね聞いていたのだろう。彼はこの機会を逃したらもうイエスに会うこともないと思ったのではないか。今日しかない、今しかない、イエスに会うには今この時しかない、と思ったに違いない。そこで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
自分は憐れみを受けなければいけない人間なんだ、憐れみが必要な人間なんだと自分で認めている言葉だ。そんな惨めな人間だということを自分で認めている、自分ではどうしようもない人間なんだということを自分で認めている、だから「憐れんでください」という言葉になったのだろう。
憐れんでくれ、なんてなかなか言えない言葉だと思う。まるで自分のことをどうしようもない、最低の人間なんだと認めているような、そう思っていないと言えないような言葉だと思う。
群衆はバルティマイを黙らせようとした。黙らせようとするとますます叫び続けたという。バルティマイは何回も何回も叫んだんだろう。そこでイエスは彼の声を耳にして、彼を呼んだ。イエスが自分のことを呼んでいると知ったバルティマイは上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た、と聖書にある。
夜になればその上着を着て寝て、昼間は施し物をもらうために地面に広げておく、というようなことがあったそうだ。そんな上着を脱ぎ捨てて、躍り上がってイエスのところに来たというのだ。
当時は病気のもの、障害を持つものが罪人と考えられていた。そして罪人はまともな人間として認められていないような存在だったようだ。少なくとも一人前とは認められていなかったであろう。物乞いをすることでしか生きていけない存在だったのだろうか。その彼にとって、上着はほとんど唯一の大事な持ち物だったかもしれない。そんな上着を脱ぎ捨てるほど、バルティマイは喜んだのだろう。
サッカーの試合を見に行って、応援しているチームがゴールした時のような気がしている。点を取ってくれ取ってくれと思いながらなかなか点がとれない、けれどもついてにゴールした時は飛び上がって喜ぶ、そんな光景に似ているなと思った。待って待って、そしてついにその瞬間が来た、という感じ。
何をしてほしいのか
彼を呼び寄せたイエスは「何をしてほしいのか」と問う。
バルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と答える。
バルティマイは目が見えるようになることをイエスに求めている。盲人に向かって何をしてほしいのかと聞くならば、当然見えるようになることだと答える、ような気もするが実は案外そうでもないかもしれないという気もする。
私たちは神に何を願っているか。偉くなりたいとか、金持ちになりたいとか、家内安全であるようにとか、病気を治して欲しいとか、いろいろある。では一体その願いが自分にとってどれほど重要なことなんだろうか。もちろんどれも大事なことには違いないが、自分の人生にとってなくてはならない重大なことを神に願っているだろうか。
親にはぐれて迷子になって泣いている子どもに、どんなおもちゃをあげても、どんなお菓子をあげても、親に会えない限りは安心はしない。おもちゃやお菓子をもらったら多少は気が紛れるだろうけれども、親に会うまでは子どもは安心することはないだろう。
迷子になっているから悲しいのに、おもちゃをくださいとか、お菓子をくださいなんて言う子どもはいないだろう。でも案外私たちはそんなことをしているのかもしれないと思う。お金がいっぱいあれば、家があれば、あれもこれもあればもっと満足できるんじゃないか、もっと喜べるんじゃないかなんて思う。そしてあれもこれをそれも与えて下さい、なんてことを願ってお祈りする。けれど、私は寂しいんです、悲しいんです、苦しいんです、助けてください、どうにかして下さい、私のことを憐れんでください、なんてことってあんまりお祈りしないような気がする。
バルティマイは自分の思いを素直にイエスにぶつけているような気がする。そんな自分の心の奥底の思いをイエスにぶつけること、それをイエスは信仰だと言われているのではないか思う。もう自分ではどうしようもない、あなたの助けが必要だ、助けてくれ、憐れんでくれという思い、そんな願いをぶつけること、それをイエスはあなたの信仰だといったのだと思う。そしてあなたの信仰があなたを救った、と言った。
聞いてくれ
自分の願いをぶつける相手を持っていること、自分の心の奥底の思いを訴える相手を持つこと、そんな思いを受け止めてくれる相手を持っていると言うこと、それが救いなのだろうと思う。
自分の願いをぶつける相手がいるならば、助けを求める相手がいるならば、私たちはたとえ自分自身の中には絶望しか無くても、自分自身は全く無力だとしても、希望を持つことが出来る。そういう相手を持っているということ、その相手に助けを求めることができること、それこそが救いなのではないかと思う。
バルティマイが躍り上がったのは目が見えるようになった時では無くてイエスから呼ばれたことを知った時だった。イエスが自分の声に応えてくれたことを知った時、自分の思いを受け止めてくれたことを知った時、かれは躍り上がって喜んだ。
イエスはバルティマイの思いを受け止めたように、私たちの思いも受け止めてくれる、心の奥底の思いをイエスはしっかりと受けとめてくれるのだと思う。
私たちの心の奥底の思いはどんなものなんだろうか。自分はなんという惨めな人間なんだろう、なんという醜い、汚い、あくどい人間なんだろう、なんという無力な無能な人間なんだろう、というような思いなんじゃないだろうか。
しかし決して人には見せられない、そんな思いも全部私のところへ持ってきなさい、イエスはそう言われているんじゃないだろうか。苦しみや辛さや、あるいは憎しみ、そんな心の中にある物も全部わたしに持ってきなさい、イエスはそう言われているのではないか。
私はこんな人間なんです、どうか憐れんでください、助けてください、私たちはもうそういうしかないような存在かもしれない。こんなに苦しいんです、こんなに不安なんです、もう疲れました、どうにかしてください、そんな私の思いを聞いてくれ、私のすべてを聞いてほしい、とイエスに訴えること、イエスはそれをあなたの信仰だと言ってくれているのではないかと思う。そしてそんな思いをイエスにしっかり聞いてもらう、受け止めてもらう、そこに救いがあるのだと思う。
イエスはそんな私たちの心の奥底にある思いを、そして私たちの全てを受け止めようと待ってくれているのではないかと思う。聞いてくれ、聞いてくれ、ともっともっと言っていいんじゃないかなと思った次第だ。