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礼拝メッセージより
「人として生きる」 2014年6月8日
聖書:創世記2章4節後半-17節
創造物語
創世記には二つの創造物語がある。2章4節後半からは二つめの創造物語が始まる。一つめの創造物語は神は天と地を創造した、という言葉から始まっているが、二つめは地と天を造るというふうに天と地が反対になっている。またそれまでは神と言われていたのが、ここからは主なる神と言われれている。
一つめの創造物語では、神が光あれとか大空あれ、と言葉によって創造したと書かれている。声だけ、命令だけで創っている。でもこの二つめでは、人を創る時はまるで神が自分の手で粘土をこねたかのようだ。
どっちが正しいとかということではなく、それぞれの物語を通して神と人間との関係を言おうとしているということだろう。
命の息
一つめの創造物語では人は最後に創られたが、二つめの創造物語ではまず神は人を造ったという。しかも土の塵で形をつくり、その鼻に命の息を吹き入れられたという。6節に括弧で書いてあるけれど、土はヘブライ語でアダーマーと言うらしくて、アダーマーから造ったからアーダーム、アダム、それが人であったということだ。
形づくっただけではまだ生きていなくて、命の息を吹き入れられて生きる者となったと書かれている。命の息を吹き入れられたのは人だけのようで、人は神の声を聞き、神の命令を守る、そんな風に神との関係の中で生きていくように創られたということのようだ。
エデンの園
神はその人を東の方のエデンに園を造ってそこに置いて、そこにはいろんな実をつける木を造った。また四つの川が流れ出ていた。第一の川ピションはハビラ地方全域を巡っていたとある。これはインドのガンジス川ではないかという説もあるがはっきりしないそうだが、第二のクシュ地方を巡っていたギホンとは、エジプトのナイル川のことだそうだ。第三、第四のチグリス、ユーフラテスは今でもその名前になっているメソポタミア、現在のイラクを流れる大きな川だ。ユダヤ地方は水が乏しくて、現代の領土問題も水を巡る争いなのだと聞いたことがある。そこで水が豊かにあるエデンという理想郷を神が用意してくれたと考えたようだ。
そして人にその園を耕し守るようにされた、と言うのだ。「耕す」という言葉は、奉仕する、仕える、とも訳される言葉だそうだ。つまりこの大地、この世界をしっかりと管理し守ること、それが命の息を吹き入れられた人間が神から与えられた大事な務めなのだというわけだ。
しかしそのエデンの園の中央には命の木と善悪の知識の木もあり、人は善悪の知識の木からだけは食べてはいけないと言われていた。食べると必ず死んでしまう、と言われている。
この物語が出来たのは、イスラエルが繁栄している時期だったそうだ。自分達の知恵や力に自信を持っていた時だったらしい。しかしそんな時に有頂天になり思い上がることのないように、そういうメッセージをこめた物語でもあるようだ。思い上がっている人達が大勢いて、その人たちに対する戒めということでもあったのかなと思う。
兎に角、大地を守る、地に仕えることは人間が神から託された務めであるということだ。けれども今の状況は、人間が大地、環境をきちんと守ってはいない状況だ。
ナウシカ
風の谷のナウシカというアニメの映画があった。
人間達が森を切り、水を汚し大地も汚し、挙句の果てに戦争でことごとく破壊を繰り返した。そして大地は腐海(ふかい)と呼ばれる猛毒を放つ木々が根を広げ、それを避けるようにして残った人々が暮らしている。
地上の多くは腐海(ふかい)と呼ばれる蟲(むし)が守る森に覆われている。障気(しょうき)マスクを付けないと五分で肺が腐ってしまう死の森、腐海。その腐海が発する毒を恐れながら人類は生きてきた。そして、人は幾度も腐海を焼き払おうと試みた。しかし、その度に王蟲(オーム)の群れが押し寄せ、そして腐海は広がった。
実はその森は大地を浄化していた、というのだ。そのことにずっと気づかないでその森を焼き払おうとしてたけれども、その邪魔なものと思っていた森が本当は自分たちを守ってくれていた、そのことに主人公のナウシカが気づいて世界を守っていくという話し。
干潟
まるで今の地球の有り様と似ている気がする。自然をどんどん壊してきた。海岸線はどんどん埋め立ててきた。干潟があるような浅い所は特に埋め立てやすかったのだろう。今の日本では見渡す限り自然の海岸線なんてところを見つけることの方が難しいような気がする。干潟なんて残していたって渡り鳥が喜ぶだけだから、埋め立ててそこに大きな工場とか大きな店とか作った方が人間の役に立つ、と思っていたのではないかと想像する。そうやって人間は自分の都合のいいように大地を作り替えてきた。ところが大して役に立たないと思っていた干潟が実は海を浄化していた、きれいにしていたのだそうだ。人間は一方では汚れた水を海に流しながら、もう一方ではその海をきれいにする干潟をどんどんなくしていった。それが近代の人間の有り様だった。けれどもそうやってどんどん自然を壊していくことでいろんな弊害が出てきた。
原発
今一番気になる問題は原発だ。よくトイレのないマンションと言われるけれど、使用済みの燃料を処理する方法もないままにどんどん作ってきた。核燃料というのは使用前よりも使用済みの方が遥かに危険で、それこそトイレに流すことができないで、10万年以上もプールに沈めて冷やし続けないといけない代物だそうだ。10万年なんて天文学では10万光年なんていう数字は聞くけれど、自分の生きている世界でそんな数字に出逢うとは思わなかった。ラジオで、トイレのないマンションどころか糞まみれのマンションだと言っていた人がいたけれど、現実には核廃棄物がいっぱいあって、糞まみれのマンションがぴったりだと思う。
人として
聖書は、大地を守るように、大地に仕えるようにというのが神からの命令であると告げている。決して自分の都合で、自分勝手にやっていいとは言わない。しかし近代になって人はいろんな技術やいろんな力を持つようになり、地球も変えてしまうような力も持つようになったような、自分達の力で何でもできるような気になっている。
神を信じるなんてのは力のなかった過去の人間の産物だと思うようになった。おれたちにはこんな力がある、海を陸に変える力もある、すばらしいこの力で自分たちの地球を自分たちの住みやすいように変えよう、神を信じる必要もない、神の声を聞く必要もない、自分たちには智恵も力もあるのだ、そう思ってきたのではないか。
けれどもその結果が海を汚し空気を汚し、安全な食べ物を手に入れることもだんだんと難しい状況になってきている。環境ホルモンやアレルギーや放射能、いろんな問題が起こってきている。
自分たちが住みやすい世界を作っているはずだったのに、気が付くとずっと住みにくい世界になってしまっている。あるいはお金をもうけるためには少々の犠牲は仕方ない、金持ちになればいい生活ができるのだから、ということでもあったのかもしれない。ところがお金で買えない大事なものまで人間はどんどんなくしてしまっている。
聖書は、神の命令に背くことから、神の言葉に従わなかったことから人は苦労して食べ物を手に入れなくてはならなくなったと書かれている。神から離れることから苦しみが起こることが書かれている。それは今の私たちにもそのまま当てはまることなのだろう。
人間はやはり神にはなれない。日本では偉い人をまつって神として拝むということがあるけれど、聖書の神のように天も地も造ったそのような神には人間はなれない。天地の全てを把握することもできない。人間とはそんな生き物である。いろんな技術も力も持つようになった、けれでも所詮は人間は人間なのだ。聖書が言うように、飽くまでも神に造られた者なのだ。だから神にはなれない、神の知恵を持つことはできない。何でも分かったと思うこと、何でも出来ると思うことは間違いなのだ。
人は飽くまでも人であって、神に創られ、命の息を吹き入れられ、神の言葉を聞いて生きていく、そういう者なのだ。神から離れること、神の命令に背くこと、それは人間の進むべき道を放棄することになる。結局はそれは自分自身を苦しめることにしかならない。
自分の力で何でもできると思い、自分は何でも分かっていると思い上がる、それが善悪の知識の木から食べるということなのではないかと思う。
人間は自然との関係、隣人との関係の中で生きている。その関係を大事にしなさい、そして神に創られた人間として、神との関係を大事にしなさい、神の言葉を聞いて謙虚に生きていきなさい、と言われているようだ。それは聖書が一貫して告げていることだ。
命の息をふきかけられて私たちは生きる者となった。その命の息をふきかけてくれた神に聞きつつ、飽くまでも人として謙虚に、神の言葉を大事に聞いていきたいと思う。それが自分を、また自分の周りをも大事にすることに繋がっているのだと思う。