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礼拝メッセージより
「パン屑をいただく」 2014年5月18日
聖書:マルコによる福音書7章24-30節
異教の地
イエスはガリラヤを離れてティルスの地方へと行った。誰にも知られたくないと思っていたと書かれている。
これまでエルサレムからファリサイ派や律法学者たちがやってきて議論をふっかけられたり、大勢の群衆がついてきたりしていたことが書かれている。そこでユダヤ人たちが嫌っている異邦人たちの土地へとやってきたということではないかと思う。
ティスルというのはフェニキアの港湾都市。地中海岸の町で、ユダヤから見ると北の方になる。シリア・フェニキアという地名になっているが、フェニキアという土地がアフリカにもあるそうで、そこと区別するためにシリアのフェニキアということでシリア・フェニキアと言っていたそうだ。
ユダヤ人から見れと異邦人の土地、いわば汚れた民の土地だった。そこにわざわざ出ていった。ユダヤ人から見ると、異邦人とはただ単に外国人というだけではなく、自分たち清い人間とは違う汚れた人間だった。そしてユダヤ人は異邦人のことを「犬ども」と言って軽蔑していたそうだ。聖なるものも汚れたものもなんでも食べてしまう犬と同じということのようだ。今の日本人の犬に対する感覚とは随分違う。今の日本で言えば何かな、ゴキブリかな、うじむしかな。だからユダヤ人は異邦人と接触することさえも嫌った。異邦人の住む異邦の地へわざわざ行く人はいなかった。そこに行けばユダヤ人たち、特にファリサイ派や律法学者たちはついては来ないだろうということだったのではないかと思う。ちょっとゆっくりしたかったのかもしれない。
イエスはティルスで、誰にも知れないように家の中に居た。しかし人々に気づかれてしまった。イエスの評判はすでに知れ渡っていた。3章7-8節に「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ユルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そこに集まって来た。」と書かれている。このティルスやシドンというのはシリア・フェニキア地方の町の名前だ。この地方にもイエスの噂は知れ渡っていたのだろう。だからこそ敢えて知られたくないと思っていた、一時喧噪から離れていたかったと言うことなのだろうと思う。
シリア・フェニキアの女
しかしイエスのもとに汚れた霊につかれた娘を持つ女がやってきた。この女はすぐに聞きつけてきたと書いてある。
そして娘から悪霊を追い出してください、と頼んだ。当時は病気は悪霊の仕業によるものだと考えられていたそうで、重い病気だったのだろうと思う。噂のイエスがやってきた、なんとかどうしても治して欲しい、イエスなら治してくれるという気持ちでやってきたのだろう。そこでイエスの足もとにひれ伏して、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。
ところがイエスは「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない」なんてことをいう。ユダヤ人のものを取り上げて異邦人に与えてはいけない、ということを言っているようだ。「なんだ、あんたまでそんなこと言うのか」と怒って帰ってしまいそうな言いぐさだ。
でもこの女の人は帰らない。なんとしても、ここで引き下がってなるものか、という感じ。これに対してこの女の人もなかなかユーモアのある返事をする。「主よ、しかし食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」自分のことを子犬だと言われただけで、馬鹿にしていると怒っても仕方ないようなことなのに。普通こんな洒落たことはなかなか言えない。「そこを何とか」「そんなこと言わずに」「私の言うことは聞いてもらえないんですか」しくしく、てなとこかな。
とにかく女の人の一途な願いはすごい。パンのかけらでもいいから欲しい。ほんのおこぼれでもいいから下さい、という感じがする。
イエスは「それほど言うなら、よろしい」と言った。「その言葉で十分である」という訳もある。原文では「その言葉の故に行きなさい」となっているそうだ。そしてイエスは女の人の願いを叶えた。
イエス
聖書をゆっくり読んでいるといろんな疑問が湧いてくる。事細かく書いているわけでも無いので余計そうだろうと思う。
今日の箇所でも、イエスはどんな気持ちで子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない、と言ったのだろうかと思う。単純に煩わしくて追い返したかったのだろうか。本当に異邦人のことは関係ないと思っていたんだろうか。それともこの女の人の信仰の度合いを知りたかったのだろうか、どれほど信じているかを知りたかったのだろうか。
ずっとイエスは試験をするような気持ちでいたのかと思っていた。悠然と構えていてこの女の人の信仰を計ろうとしていたんじゃないか、合格か不合格かを知るためにこういう言い方をしたんじゃないか、そして合格したので女の人の願いを叶えたのかとなんとなく思っていた。
実際どうだったんだろうか。イエスがいつも罪人とされたり汚れた者と見なされているような人と一緒に食事しているようなところを見ると、今日のことば通りに異邦人のことを差別して見下げていたとは思えない。かと言って、まるで試験でもするかのような問答をしたとも思えないというか思いたくない。それだと冷たいロボットのような感じがして、それも日頃のイエスとはかけはなれているような気がする。
そうするとやっぱりイエスはその時は煩わしかったということなんじゃないかと思う。ファリサイ派や律法学者たちと、また大勢の群衆とのやりとりに疲れて休みたかったんじゃないか、なのにそこにまでやってきたこの女性のことが実は煩わしかったんじゃないかと思う。そこで異邦人のことまで構ってられない、というような憎まれ口を叩けば帰ってくれるだろうと思ってこんなことを言ったんじゃないかと思う。
イエスはいろんな人を癒してきたことが書かれている。そして大勢の群衆となって押し寄せてくるにつれて、さあ癒してくれ、どんどん癒してくれ、どうして癒してくれないんだ、というような圧力を感じていたのかもしれない。病気を癒す人という評判ばかりが広がると、とにかく癒せというような人が押し掛けてくるような気がする。そうするとイエスとしては人を癒すロボットにような見られ方をされてしまいかねず、実はそんなことに疲れてしまったのではないか、そこで群衆から離れようとしたんじゃないかと思う。
そんなイエスのところに異邦人の女の人がやってきた。またか、という思いでイエスは憎まれ口を叩いたんじゃないかな。
ところが女の人は自分のことを子犬だ、と言った。わずかのパン屑でいいから欲しい、といった。大きなパンをもらえるようなものではない、と言った。
当たり前のように癒してくれというようなことに疲れていたイエスにとってはとても新鮮だったのかなと思う。
パン屑でいいからもらいたい、というような切実な思いで自分のもとへやってきていることを知った、そういう大変さを抱えていることを知ったからこそ、イエスはこの女の人の願いを真剣に聞いたんじゃないかと思う。
この女の人の信仰が深かったからとかいうことよりも、そこまで願うほどの大変さ、苦しみを感じて、イエスは追い返すことも無視することもできなかったということなんだろうと思う。
熱心に祈れば聞かれるとか、疑わない深い信仰があれば聞かれる、ということで神が顧みてくれるということではないのだろう。そうではなく、神が、イエスが、私たちの大変さや苦しさを感じてくれるから、その大変さの中に生きている私たちを憐れんでくれるからこそ、私たちを顧みてくれるのだろう。
祈れば聞いてくれるなんてとても言えない、そんなあつい信仰も無い、でもパン屑でいいから欲しい、どうか助けて欲しい、そう言うしか無い、そんな苦しみの中にある私たちをイエスは見つめてくれている、そんな私たちをイエスは憐れんでくれる、今日の聖書はそのことを伝えてくれているように思う。