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礼拝メッセージより
「神の国はどこ?」 2014年5月11日
聖書:マルコによる福音書4章26-32節
命
マタイによる福音書によると、イエスがサタンの誘惑にあって空腹な時に石をパンにかえたらどうかと言われたと書かれている。人間が石を食べることができたらいいのにな、なんて思うことがある。そんなことを考えながら、結局人間が食べているものは植物にしろ動物にしろ命があるものばっかり食べているんだと思った。
また命というものも不思議なものだと思う。何百年も前の種に水をやると芽が出たなんて話しを時々聞くけれど、なんで種は芽が出て、石ころからは目が出ないんだろうかなんて思ったことがあった。種には命があるからなんだろうなと思ったけれど、どうして種は命を持っているんだろうか、命のあるなしはどう違うんだろうかなんて思った。種の命は代々引き継がれていくわけで、引き継がれた元の命は何だったんだろうか、どこから来たんだろうか、どうやって出来たんだろうかなんて思うけれど、よく考えたらわからないことばかりだ。
その種が芽を出して成長するのもどうしてなのかよくわからない。水と光と栄養があれば育っていくみたいだけれど、どうして成長するのか、どうやって成長するのか、わからないなあと思う。どういう条件だと成長するのかというのは経験的にも分かるし実験すればよくわかると思うけれど、どうして成長するのかって結局はよく分からないじゃないかと思う。人間が自分の力だけで成長させることはできないなと思う。水や光などの環境を整えることは出来るけれど、後はお任せするしかない。
イエスは、神の国はそのように人が土に種を蒔いて、知らないうちに成長して結んだ実を収穫するようなものだと言うわけだ。
実際の農家はそんなことは言っていられない。天気のこと、水のこと、虫のこと、雑草のこと、いろんなことを心配していろいろと面倒を見る。
でも神の国は種蒔いてから、あとは実が熟したら収穫するようなものだというのだ。
からし種
もう一つの神の国のたとえはからし種だ。からし種は小さい種から大きい木に成長するそうだ。からし種って粒マスタードに入っている粒のことだろうか。あの粒のことなのかどうかはっきりしないけれど、大きさとしてはあれくらいみたい。でも成長すると大きくなって人が登ったという記録もあるらしい。
神の国はそのからし種のようなものだとイエスは言った。ということは神の国とは爆発的に成長するようなもの、ということなんだろうか。
神の国なんて言うと、神が最高権力者となって支配している国のような感じがする。しかしこのたとえを見ると、イエスの語る神の国とは、権力者が力を振るって治めるような目に見える国のこととは随分違うもののようだ。
そうではなく、土に蒔いてから成長すること、下から成長していくこと、神が下から支えていくこと、神によって下から根っこから支えられていくこと、それがイエスの語る神の国ということなんではないかと思う。
種
ではこの蒔かれた種とは何なのだろう。どこに蒔かれているのだろう。
このマルコの4章の始めのところには種を蒔く人のたとえという話しが載っていて、4:14には「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」と書かれている。
そこから考えると種とは神の言葉なんだろう。神の国とは、神の言葉が人の心に蒔かれるとそれがいつの間にか成長すること、ということなんだろうと思う。
とにかく種を蒔くことが神の国のようだ。種を蒔いて、そしてやがて収穫する、それが神の国だというのだから。とにかく種を蒔け、ということかもしれない。その種がどうやって成長するのか、どうして成長するのか知らなくてもいい、とにかく蒔きなさいと言われているような気がする。
その種は成長するのだ、その種には成長する力があるから、ということなんだろうと思う。
種に命があるから成長する。命のない種は決して成長しない。神の種には、神の言葉には成長する力がある、大きく成長する力がある、ということだろう。
それはいろんな人に御言葉を伝えるように、ということもあるのだろう。私たちがとやかく屁理屈を言うよりも、御言葉自体に力がある、命があるのだから、とにかく伝えればよい、ということでもあるのかもしれない。
そして同時に私たちは私たち自身の心の中にもこの種を蒔くことが大事なような気がする。しっかりと根を張ることができる心の真ん中に御言葉の種を蒔きなさいと言われているのではないか。
命の種が蒔かれているかどうか。それが問題だ。そしてそれはどうやら小さくて見えにくいらしい。命の種が私たちの心に蒔かれているだろうか。命の種が私たちの教会に蒔かれているだろうか。
命の種が蒔かれていれば、それは成長して大きくなる、時期が来れば収穫するようになる。そんな種が蒔かれるところ、そこが神の国なのだ。
その種は神が豊かな実へと成長させてくれるというのだ。神の力によって豊かな実を結ぶというのだ。神の言葉によって私たちが慰められる、また力付けられる、それこそが豊かな実なのだと思う。
ほとんど見えないようなからし種から、大きな枝を張る木へと成長するように、私たちの教会も、私たちの人生も、神の言葉によって成長させてくださるのだ、とイエスは言われているのだろう。
そのことを信じて、また希望を持って種を蒔いていきたい。神の言葉をみんなでしっかりと聞いていきたいと思う。