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礼拝メッセージより
「いつも一緒」 2014年4月20日
聖書:マルコによる福音書16章1-8節
聖書
聖書は聖なる書物という名前がついていて、なんだか神聖な書物で間違いの無いものなのかと思っていた。勿論これは神が書いたものでもなく人が書いたものだ。だからいろんな間違いも含んでいるし矛盾もある。しかしこれを書いた人達が神のこと、イエス・キリストのことを何とか伝えようとして書かれたもので、この聖書を通して私たちは神の姿を垣間見るというか、神の言葉を聞いていけるのだと思う。
今日はイースター・召天者記念礼拝だが、先に召された人達もこの聖書を通して神の言葉を聞き、力付けられ慰められてきた。そしてこの方たちが聞いてきた神の言葉を、私たちも聖書を通して一緒に聞いていきたいと思う。
葛藤
今日の聖書はイエスが復活したというところだ。実はマルコによる福音書はもともとは今日のところで終わっていたそうだ。16章9節以下は後になって付け足したものだというのが通説になっている。
そうするとマルコによる福音書では、イエスの復活については、復活したというイエス自身は登場しないで、十字架で処刑されて死んだ後お墓に納めたはずの遺体がなくなっていた、ということが書かれているだけだ。他の福音書には復活のイエスがいろいろな形で登場するけれども、マルコによる福音書は新約聖書の四つの福音書の中では一番古くにまとめられたものだそうだが、そのマルコによる福音書に復活のイエスが登場しないというのは不思議だ。
イエスの復活とは何だったのか、どのような復活だったのか。そもそも復活なんてあるのかと思う。イエス復活について、肉体を伴って生き返ったというようなことを言う人もいるし、肉体はなくて霊的なものだという人もいるし、あるいは幻だったんじゃないかと言う人もいる。福音書にも色々書いているし、聖書を読めば読むほど実はよくわからないということになりそうだ。
僕も昔は素直に、聖書が復活したとか墓がからっぽだったと書いてあるんだからその通りなのだと思っていた。肉体も伴って甦ったんだと思っていた。そんなことあるのかと疑うことよりも、それを信じることこそ信仰なのだと思っていた。
ところが10年位前だったかな、イースターの朝だったと思うけれど、たまたま車のラジオでイエス・キリストの復活の話しをしていた。どこかのキリスト教関係の大学の先生だったと思うけれど、イエスの復活について死んだ肉体が甦ったかどうかは置いておいて、私たちの心の中にイエスが甦ること、それはもうイエスの復活なのだ、というようなことを言っていた。
その頃はまだ素直だったので、肉体が甦ってこそ復活なので、それを置いておいては復活ではないじゃないかと思った。普通ありえないことを起こしてこそ神なのだと思っていた。
でも最近は、そのラジオの先生が言っていることが本当なのではないかと思うようになってきた。
幻?
少し前、テレビで東北の震災の話しをしていた。その中に津波で家族を亡くしたという人が出ていた。詳しいことは覚えていないけれど、津波がくるまで一緒にいたのに母親を波にさらわれてしまった人と、何かの都合で助けに行けなくて子どもを亡くした人の話しがあった。その人たちは家族を助けられなかった自分を責めて、その重荷にずっと苦しめられていたそうだ。
しかしひとりの人は、確か夢の中にいつもの穏やかな顔をした母親が出て来たという話しをしていた。子どもを亡くした人は、起きている時に部屋の中に子どもが現れてにっこり笑ったそうだ。夢か幻か、あるいはその人の霊なのか、多分夢や幻なのだろうと思うけれど、その二人はそのことがあってからそれまでの重荷がずっと軽くなったと言っていた。正体が何だったのか、霊だったのか幻だったのか、そんなことは問題では無くて、その姿を目にしたことこそが大事だったわけだ。
イエスの復活もそれに似たようなことだったのではないかと思った。聖書には復活のイエスに出逢ったという話しが色々出てくる。でもそれはどれもとても個人的な出来事のようだ。幻なのか霊なのか分からないけれど、誰もが見えるような、誰にも証明できるような、一般大衆の目の前に現れるといういうような形ではなく、とても個人的な内面的な出会いであったようだ。
絶望
そして大事なのはその復活のイエスが肉体を持っていたのかどうかというよりも、兎に角イエスと出会ったこと、そのイエスとの出会いによって出逢った人達がどうなったのかということだ。
かつてイエスに従っていた人達はイエスに期待をかけていた。イエスが世の中をよくしてくれる、自分達の国を建て直してくれる、そう思って自分の人生をかけてついて行っていた弟子たちもいた。命をかけてイエスについていくと思っていた者もいたようだ。しかしイエスは時の権力者に捕まり十字架で処刑されてしまった。自分の人生の師匠とあがめていた人が重罪人と同様に、十字架という惨めなむごたらしい方法で処刑されてしまった。しかも、何があってもどこまでもついていくと豪語していた弟子たちもみんな逃げてしまっていた。
弟子たちは従っていくべき師匠を悲惨な十字架で亡くしてしまい、進むべき道を見失っていた、またその師匠を見捨てた自分自身のだらしなさや不甲斐なさに打ちのめされてもいのに違いないと思う。しかも処刑された重罪人の弟子という汚名まで着せられ、共犯者としての危険もあるというような悲惨な状況だったのだろうと思う。
出会い
そんな時に弟子たちはイエスと出会ったのだ。その時のイエスが肉体を持っていたのかどうか分からない。恐らく幻のような、霊のようなものだったのではないかと思うけれど、兎に角弟子たちはイエスを見てイエスと出会ったのだ。彼らはそのイエスとの出会いを通して、かつてのイエスの姿、イエスの言葉をもう一度思い出したに違いないと思う。
イエスは病気の者や罪人とされた者、汚れていると言われている者、そんな社会から見捨てられ除け者にされている者のところへ出かけていった。生きる希望を持てないような人の所へ行き、あなたたちは愛されていると伝え、絶望している人達に生きる力を与えてきた。
復活のイエスに出逢う前の弟子たちは、かつてイエスが出かけていった人達と同じように絶望するしかないような状態だった。しかしそこで弟子たちはイエスと出会ったのだ。
弟子たちは絶望する者たちのところへ出かけていくイエスの姿を心の目で見たのだろう。そして絶望している自分の所へやってきたイエスを見たのだろう。かつて語っていたイエスの言葉を彼らはもう一度噛みしめたに違いないと思う。そんなイエスとの出会いによって弟子たちは生きる力を与えられた。それこそがイエスの復活の出来事なのだと思う。
今日は召天者記念の礼拝でもある。先に召された方たちもイエスの言葉を聞いて力を与えられてきたことだろう。聖書を通して、またいろんな話しを通して、イエスの生き様を聞き、イエスの言葉に触れてきた。それはまさにイエスとの出会い、復活のイエスとの出会いとも言えるものだったのだと思う。
私たちが今イエスの言葉を聞くことは、イエスと出会うことでもある。このイエスの言葉は、先に召された方たちを力付けてきたように、私たちも力づけるものでもあると思う。イエスの言葉を聞くことは心の中でイエスと出会うことでもある。そして心でイエスと出会うならば、私たちがどこにいても、どんな時でも、いつまでもイエスと一緒にいるということだ。
新約聖書の中にある手紙の多くを書いたパウロは、キリストがわたしの内に生きているのだと書いている。
そのイエスは見えないし、人に見せることも出来ない、しかし一緒にいてくれる。そして何があっても私たちをひとりぼっちにはしない。私たちはそのイエスといつも一緒にいるのだ。
先に召された人達がそうであったように、私たちもこのイエスと一緒に生きていきたいと思う。