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礼拝メッセージより
「婚礼の客」 2014年4月27日
聖書:マルコによる福音書2章18-22節
忍耐
中学くらいの頃かな、好きな言葉を聞かれた時に、友情とか忍耐とか努力と言っていた。本心では忍耐とか努力とか嫌いなんだけど、そういうことを言うと大人が喜ぶのを知っていてわかったような振りをしていた。空気を読んでいいかっこをばかりしていたような気がする。
日本人は忍耐というのを賞賛する。忍耐して過労死してまで働く人もいる。そうしないと許されないような雰囲気があるような気がする。
信仰についても忍耐すること、苦行することに価値があるような雰囲気があるんじゃないかと思う。
断食
今日の聖書の箇所では断食の話しが出てくる。
旧約聖書の規定では断食は年に1回だけだが、当時ファリサイ派の人達は週に2日、月曜と木曜に断食していたそうだ。
そもそも断食ってなんなんだろう。
ある人の説教に、
『「断食」の由来は元々、年に一度秋に行われた「贖いの日」には、「自分
を拷問にかけよ」という規定(レビ記23:27)があって、これが「断食」の意味に解釈されました。神の前に罪を思って悲しみを表わすことが、断食の目的だったのです。』
と書いてあった。新共同訳では拷問ではなくて苦行と訳していた。
何のために断食するんだろうか。食を断つことにどんな意味があるんだろうか。苦行のためなのだ、と言われるなら分かる。どこかに、食を断った分を誰かのために献げるというようなことが書いてあって、それならそれも分かる。ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちはどんな目的をもって断食をしていたんだろうか。
よくは分からないけれど、彼らは断食してるのにあなたの弟子たちはどうして断食しないのか、とイエスに言う人たちがいたと書かれている。
ということは、断食というのは宗教グループが当たり前に行う事だったということなんだろう。宗教グループにとって断食というのは真面目さの現れでもあったのかもしれないと思う。
マタイによる福音書6章には、イエスが断食について語っているところが出てくる。そこを見ると偽善者は断食しているのを見て貰おうと顔を見苦しくする、と言っている。そしてあなたは誰にも気付かれないようにしなさいと言われている。人に見せるために断食している人達がいたということのようだ。ここでは断食をするんなら誰にも気付かれないようにしなさいとも言われている。
しかし今日の箇所ではイエスは断食を人に分からないようにしろとは言っていない。花婿が一緒にいるのに婚礼の客は断食はできない、と言っている。正しい断食をしろというのではなく、断食が出来る状況じゃないだろう、断食するような時じゃないだろう、と言っている。
布切れと革袋
その後、古い服に新しい布切れで継ぎを当てたりしないという話しと、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりしない、という話しをする。
新しい布切れは洗うとよく縮むとかいうことで、古い服を余計に引き裂くそうだ。また新しいぶどう酒はよく発酵するので古い革袋だと耐えられないそうだ。多分どちらも誰もが知っている、当たり前のことなんだろう。
ファリサイ派の人達もヨハネの弟子たちも、信仰とは苦行だというような感覚があるような気がする。というか一般的にもそんな感覚があるんじゃないかと思う。いろんなことを我慢することが信仰深いことであるかのように思う。
信仰ということになると、どうしても苦行的な考えになってしまいがちだ。断食しなくてもいいのか、我慢して耐えてこそ得られるものがあるんではないか、なんてことも思いがちになりそうだ。何もしなくていいんだろうか、なんて心配にもなる。
でもイエスはここでいうように、私たちは婚礼の客として招かれていると言っている。婚礼の客としてその食卓に着くこと、それがイエスの言う信仰なのではないかと思う。
イエスは全く新しいことを言っているんだと思う。だからイエスが新しいぶどう酒は新しい革袋にと話したように、私たちは全く新しい革袋のような気持ちでイエスの言葉を聞くことが大事なのではないかと思った。
教会では、イエスは私たちの罪のために十字架にかかり、三日目に復活させられた、というようなことを言う。教会ではというかだいたい牧師がそんなことをよく言う。そしてそれに合うように聖書を読み、イエスのことを解釈しようとしているんじゃないかという気がしている。聖書に書いてあるんだからその通りだ、キリストなんだからそうできたんだ、と無理して信じようとしてきたような気がしている。でも無理して信じても身にならないというか響いてこない。
最近メッセージの準備をしている時など、ひとつひとつのことにひっかかっている。罪ってなんなんだろうとか、贖いというけれどそれってどういうことなんだろう、復活ってどんなだったんだろう、なんていろんなことに一杯ひっかかっている。
なんだかよくわからないくせに、かつて教会で教えられてきたこととか、誰かに聞いたこととか、偉い人の本に書いてあるというような言葉をただ繰り返して言ってるだけのようなことがいっぱいあるなと思っている。
革袋
教会で聞いたとか、誰かに教えられてというような、そんな言わば古い革袋で私たちもイエスの言葉を聞いているのではないかという気がしてきている。イエスの語るこの言葉はこういう意味です、と教えられた通りに解釈してわかったような気になっているとか、またよくわからないけど言い伝えられてきたようにメッセージをしているんじゃないかとこの頃よく思う。そしてそれこそ、古い革袋に新しいぶどう酒を入れているということなんじゃないかという気がしている。イエスの言葉を素直な気持ちで、新しい柔軟性のある革袋で聞くことが大事なんだ、と今日の箇所を読みながら思っている。
断食の話しで言うと、イエスは断食する時は隠れて断食しなさいという箇所もあるけれど、今日のところでは正しい断食をしないと駄目だと言っているわけではなくて、あなたたちは婚礼の客として招かれているのだ、神を信じるとは喜びなのだ、ということを僕自身は教えられていると思っている。
そもそも根本的な違いがあるから、信仰には苦行が付き物だというような、今までの宗教観とか信仰観の延長として理解しようとしても、つまり古い革袋に入れても無理があるのだと思う。
新しい革袋でイエスの言葉を聞く時、つまり先入観を無くしてイエスの言葉を聞く時、イエスの語ることが聞こえてくるのだと思う。つまり教訓とか教義、立派な教えとして聞くのではなく、自分自身に語りかける言葉としてイエスの言葉を聞く時、その言葉は私たちを力づけ慰めるものとなるんだと思う。
イエスの言葉は、革袋をどんどん膨らます力のあるもの、もともと私たちを揺り動かす力のあるもの、私たちの心をわくわくさせるものだと思う。