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礼拝メッセージより
「どん底にいる神」 2014年4月13日
聖書:マルコによる福音書15章29-41節
神はいない?
思わぬ良いことが起こると神はいるんだ、なんて言い、思わぬ都合の悪いことが起こると神はいないと言う。いることにして感謝したり、いないことにして文句言ったりする。
windowsXPのサポートが終わるということでwindows7の新しいパソコンに急遽乗り換えた。データを移すソフトがあってそれはすぐに移せたが、週報を写すソフトが古くて新しいバージョンに買い換えた。そして新しいバージョンで先週の週報のデータを出したらごっそり字が出てこない部分があった。使い勝手もまだよく分からなくて、仕方なく古いパソコンで文字データだけコピーして、新しい方に貼り付けて、字の大きさを調整して、フリガナもつけ直して、だいたい元通りになったあたりで、何かの拍子に「応答無し」となって止まってしまった。保存もしてなくてそれまでの苦労が水の泡になってしまって、それこそ神はいないのか、と言う感じだった。
ショックでしばらく呆然としてたけれど、仕方ないのでもう一度前のデータを出して最初からやり直そうとしていろいろ触っていたら字が出てなかったのは、枠線の下にまわっていて見えなかっただけで順番を入れ替えたら元通り見えるようになった。下手に入力し直して間違うより、「応答無し」で止まってしまって逆に良かったことになった。やっぱり神はいる、なんて思ってしまった。神がいるとかいないとか全く勝手な奴だ。
十字架
処刑場にやってきた囚人たちは十字架に堅く縛られるか、あるいは手首を釘で打ちつけられたそうだ。そして囚人たちは十字架上で力尽きて死ぬまで苦しみ続ける。十字架刑は当時もっとも屈辱的な刑で、普通1日か、2日間苦しんでから死んだそうだ。死んだあとの死体も普通は野ざらしにされ、鳥やけものの餌にされていたらしい。
イエスは朝の9時に十字架につけられた。そして十字架につけられてからも、道行く人や祭司長、律法学者たちにあざけられた。「十字架から降りて来い、そうしたら信じてやろう」という風に。またイエスと共に十字架につけられた囚人からも罵られた。
昼3時に息をひきとるまで6時間、十字架の上にいた。どんな痛みだったのか、どんな苦しみだったのか、想像もできない。
そしてこの時、イエスの12弟子たちはもうそこにはいなかった。マルコ14章を見ると、イエスの弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げ出してしまっている。後でこっそり追ってきたペテロも、まわりの者から問い詰められ、3度イエスを知らないと言う。一緒に行動をともにし、一緒に生活をしてきた12弟子はもうすでにいない。そこには遠くから見守っている女たちがいるだけだ。
イエスの最後の言葉は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」つまり、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」であったと記されている。他の福音書には十字架上でもっとかっこいいことを喋ったと書かれているが、マルコによる福音書にはこの言葉しか書かれていない。実際はマルコによる福音書が実像に近いのではないかと思う。人々に完全に見捨てられ、そして神からも見捨てられた、その様な状況にイエスは立たされたのだ。
神の子なら、どうして絶望して死んでいかねばならないのか。そもそもキリストがどうして殺されてしまったのか。本当にそんな人がキリストなのか。たとえ死ぬとしても、キリストならもっとましな死に方があるのではないか。神に完全に信頼して、苦痛を耐え忍んで、それこそ讃美歌でも歌いながら死ぬべきではないか。神の子ならどうにかしたらどうなのか。そのままじっとして、弱いままで死ぬことはないではないか。そんな気がする。
神の子
31節には「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と言った人がいたと聖書は語っている。こういうときこそ、奇跡をおこして、十字架からスーパーマンのように下りてくる、それこそがキリストである。私たちもそんな風にしばしば思うのではないか。
イエスは様々な奇跡と言われるようなことをやってきた。なのにこの時は奇跡を起こせなかったんだろうか。それとも敢えて起こさなかったのか。
神とはいったい何なのか、神とはどういうものなのか。いろいろなイメージ、人それぞれに持っているだろう。すごい奇跡をおこす力を持ち、光輝く姿で悪者を懲らしめ世の中の不正を正していく、そしていつもどこか高いところから、私たちを見ている、それが神のあるべき姿、だれもがそんな神のイメージを持っているのではないか。でもそんなイメージにはとても似つかわしくない姿がここにある。私たちの期待に答えるような姿は十字架の上にはない。
イエスは絶望の声を上げて息を引き取った。まさに敗北の死の有様といった感じがする。そんな死に方をする者をだれがキリストだと思うのか、だれが神の子だと思うだろうか。だれが信じることができるでだろうか。あの言葉は絶叫ではない、あれが絶叫だなんて思いたくない、という気持ちもある。何か深い意味のある言葉に違いない、と思いたい気持ちになる。十字架の姿だって、単なる仮の姿でしかないに違いないと思いたくなる。本当の神の姿はこんなんではないのだ、と思いたくなる。
ところがこのイエスの姿を見て、この人こそ神の子だという人がいた。39節『百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。』百人隊長とは100人の兵隊の長で、前の訳では百卒長となっていた。
この人は大声を出して絶叫して死んでいったイエスを見て、この人は神の子だったと言った。ところがこの人はイエスにいばらの冠をかぶらせ、つばきをかけ、十字架につけた兵士たちのうちのひとりである。この隊長がイエスを見て、「まことにこの人は神の子であった」と告白している。孤独に苦しみ、痛みに苦しみ、絶叫して死んでいったイエスを目の当たりにして神の子だ、と告白している。何でそんなこと言ったんだろうか。なぜそんな風に思ったんだろうか。この一週間くらいずっと考えているけれどその理由はマルコによる福音書には書かれていないしよくわからない。
そこには私たちがしばしば思い描く神々しい神のしるしといったものは何もない。しかし百人隊長は、いわゆる神々しいしるしを見たからではなく、絶叫して死んでいった有り様を見てイエスが神であることが分かったようだ。どうしてそんなことがわかったのか、それは分からない。それを感じ取ったと言ったほうがいいのかもしれない。
38節『すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。』と書かれているが、神殿の垂れ幕が処刑場から見えるわけでもないので、それで神の子だと分かったわけでもないだろう。なぜ十字架で絶叫したイエスが神の子だと分かったんだろうか。この数日このことを考えているけれど明確なというか、誰もが納得できる、誰をも納得させられる答えは出てこない。何か説明できないような、言葉にして説明するのも難しいような何かを感じたのかななんて想像している。
どん底
イエスが十字架で絶叫して死んだということは、神が私たちとどう関わってくれているかということを示しているのではないかと思う。
神はイエスにおいて、私たちと出会ってくれている。イエスとして、イエスという形で私たちと面と向かい合ってくれている。
イエスは私たちの所まで来てくれた。同じ高さに立ってくれた。そして苦しみをも味わってくれた。私たちと同じ苦しみを、それ以上の十字架の苦しみを味わってくれた。人に捨てられ、神にも捨てられ、完全に孤独な状況に立ってくれた。最後まで弱い人間として、私たちと同じ弱い者として、苦しみの中にいてくれた。最後まで私たちと同じ所にいてくれた。絶叫するしかないような所まできてくれた。
それは、私たちが苦難に遭い、失敗し、落ち込み、人にも見捨てられ、神などいないと叫ぶとき、しかしそこにもイエスはいてくれているということを表している。私たちが「神よどうして私を見捨てるのか」と叫ぶ時、そこにこそイエスはいてくれているのだ。そんな人生のどん底にもイエスは一緒にいてくれている。それこそが私たちにとっての救いなのだと思う。
イエスは十字架で絶叫した。それは私たちの絶叫と同じ絶叫だったのではないか。不条理な世の中でもがき苦しみ打ちのめされた絶叫ではなかったのか。そんな絶叫する私たちのすぐそばにイエスはおられる。イエスは私たちの期待するような力ある神でいるよりも、どこまでも私たちと共に居ようとされたのではないかと思う。
イエスはどんな時にも見捨てたりしない。人が皆見捨てても、神などいないと言ったときでも見捨てない。私たちが、どうしてこんなことになるのか、どうしてこんなことが起こるのかという時に、イエスは私たちと一緒にいてくれている。私たちの嘆きを、私たちの叫びを聞いてくれている。そして一緒に嘆き、一緒に苦しみ、一緒に悲しみ、一緒に泣いてくれているはずだ。イエス自身が苦しみを経験し、絶叫し、その辛さをよく分かっているからだ。
私たちがどん底に落ち込む時、その下から私たちを支えてくれる、そういう仕方でイエスは私たちのそばにいてくれる、いつまでもどこまでも共にいてくれるのだと思う。