前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「神の招き」 2014年4月6日
聖書:マルコによる福音書1章9-15節
バプテスマのヨハネ
新約聖書の四つの福音書の中で一番はじめにまとめられたのがマルコによる福音書だと言われている。面白いことにそのマルコによる福音書にはクリスマスのことが書かれていない。クリスマスのことには興味がないのか、あるいは知らなかったのかもしれない。
福音書は、神の子イエス・キリストの福音の初め、と言う言葉に続いて旧約聖書を引用して、まず使者を遣わすということが書かれているということを告げる。「預言者イザヤの書にこう書いてある」。マルコの福音書の冒頭1章2節にそんな言葉が出てくる。使者が現れてその後にキリストが登場するというわけだ。
当時の人たちはこの使者はエリヤである、旧約聖書に出てくる預言者のエリヤがまたやってくると思っていたらしい。イエスが十字架で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言った時に、エリヤを呼んでいると思った人がいたことが福音書に書かれているように、まず先に使者が来るということはみんなに知られていたようだ。そしてマルコはバプテスマのヨハネがかつて約束された使者であると告げている。旧約聖書によれば、エリヤはらくだの毛布を着て、革の帯をしていたと書かれていて、ここのバプテスマのヨハネとそっくりの恰好をしていたようだ。
そしてその使者の後にやってきたイエスが救い主、キリストなのだというわけで、それは旧約聖書に約束されているとおりだ、とマルコは語っている。
罪
そのバプテスマのヨハネが荒れ野で罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていて、イエスもやってきてバプテスマを受けたと書かれている。イエスに罪はないはずじゃないか、なのになんでイエスがバプテスマを受けるのかと思う。
このイエスのバプテスマについて面白いというかなるほどと思う話しをネットで見た。
当時ユダヤ人たちはローマ帝国に支配されてローマに税金を納めないといけなかった。ローマはユダヤ人たちから見ると異邦人であって、汚れた異邦人に支配されて異邦人に税金を納め、異邦人のいいなりになってしまっている自分達ユダヤ人は罪の状態にあると思っていたらしい。悔い改めないと神の裁きがある、と訴える者たちがいたらしい。バプテスマのヨハネもそう言って悔い改めを説きバプテスマを授けていたようだ。
そもそも聖書で言う罪とは、元々の言葉の意味は的外れということで、本来あるべき状態にないこと、つまり本来神の声を聞いて神に従うべきなのに、そうなっていないこと、神に聞いていない、神に従っていない、神を第一としていない、ということだ。なので聖書でいう罪とは悪いことをしたとか、法律を破ったとかいうことではない。当時はローマに支配されていて、神に従うよりもローマに従っている、そんな状態であるユダヤ人は誰もが罪の状態にあると考えていたそうだ。だから悔い改めのバプテスマを受けよ、とヨハネは主張していて、イエスもそういう罪の感覚を持っていたからバプテスマを受けたのではないかと書いていた。
悔い改めるというのも、悪いことをしたことを悔いてもう致しませんと後悔するということではなくて、方向転換をするということだ。神の方を向いて生きていなかった方向を転換して神の方を向く、神の言葉を聞いていなかったのを神の言葉を聞いていくように方向転換する、それが悔い改めだ。
ヨハネはこんなことをしていてはやがて神の裁きがある、と主張していたためにユダヤ教の指導者たちと対立して処刑されてしまうこととなり、ヨハネ教団は解散ということになったようだ。イエスもバプテスマを受けて最初はヨハネ教団に入っていたけれども、やがて独自の道を歩み始めたのだろうと思われる。
イエスはバプテスマのあと、すぐに荒野で40日間、断食してサタンの誘惑にあった、そのとき「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いてある、「あなたの神である主を試してはならない」と書いてある、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある、と言って旧約聖書の言葉で答えた、ということがマタイによる福音書と、ルカによる福音書に書いてある。
ところが、福音書の中で一番古いマルコによる福音書は、荒れ野の試みにあったというところは、わずかに2節しかない。えらくあっさりとしか書いていない。実際はどんなことがあったのだろうか。
神の国
その後イエスは、時は満ち神の国は近づいた、と言って神の国を宣べ伝えた。バプテスマのヨハネは悔い改めないと神の裁きがあると言って、やがて神が力を発揮するだろうと言った。しかしイエスは神の国は近づいたと言って自分から神の国を作り始めた、その神の国とは貧しい者や虐げられた者を始め、それまで除け者にされていた人達も含めてみんな一緒に食事をするところ、と先の人は言っていた。
ユダヤ人たちは、神に祝福される者は欠けがないものであり、欠けのあるものは汚れていて罪があると思っていたようだ。そして病気の者を汚れていると言い、貧しい者を神に祝福されていないと言っていた。また律法を守らない者、守れない者を罪人だと言っていた。
しかしイエスはそうやって見下され、罪人だとされていた人達が神に招かれている、神の食卓に招かれている、と主張した。区別や差別、そんな境界線をとっぱらってみんなが一緒に食事をする、まさにそこが神の国なのだ、みんな神に認められているのだ、と主張した。
それは当時の社会、ユダヤ教社会構造に対する反逆であった。そのためにイエスも処刑されることとなった。
イエスは悔い改めて福音を信じなさいと言った。さっきも言ったように悔い改めるとは悪いことを後悔することではなくて方向転換することだ。方向転換して福音を信じるということは、自分達は罪人なのだ、汚れているのだ、だから神からも社会からも見捨てられているのだという思いから、この自分は神に認められている、神に招かれている、神が共にいてくれている、という福音へ方向転換することだ。自分達を抑圧し差別しているローマ皇帝やユダヤ教指導者たちの声を聞きその声に従うことから、それよりも先ずイエスの声を聞く、神の声を聞くことへ方向転換することだ。今この自分がすでに神に招かれていること、それを認めることそれこそがイエスの言う悔い改めなのだ。