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礼拝メッセージより
「いつも共にいる」 2014年3月30日
聖書:マルコによる福音書15章16-32節
虐待
最近ベビーシッターが子供を殺したというようなニュースがあった。ベビーシッターが子供を虐待している隠しカメラのビデオなでも時々放送している。
人間の本性は弱い立場の人に対して現れるようだ。弱い立場にあるものに対して人間は尊大な態度をとりがちである。特に相手が悪いことをした悪い人間だなんて時には、したい放題のことをするなんてことがある。そういう話を聞くとひどいなと思うが、それが人間の本質なのかもしれない。そしてイエスの周りにも人間の本性を表したような者がいた。
侮辱
十字架で処刑されることが決まったイエスに対して、兵士たちは総督の官邸の中にひいていき部隊の全員を集めた。そして「ユダヤ人の王、万歳」といって馬鹿にした。王の衣の代わりである紫の衣を着せ、王冠の代わりに茨の冠をかぶせた。敬礼をしたり拝んだり、また逆に葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけたりして侮辱した。十字架にかけられるものに対してのいつもの仕打ちだったのかもしれない。罪人と確定した奴に対しては何をしても構わないという気持ちがあったのだろうと思う。
兵士たちはそこを通りかかったシモンという人に十字架を担がせる。張り付けにされるものは本来は自分で十字架の横木を運ばされたそうだが、イエスには前夜からの徹夜の取り調べとむち打ちに体力も残っていなかったというなんだろう。シモンの子どものアレキサンドロとルフォスは後にイエスを信じるものになったという話しもある。わざわざ子供の名前を書いているのは、その子供達が福音書が書かれた時に教会にいたからではないかというわけだ。そうだとすると、犯罪人の十字架を担がされるという言わば屈辱的なことから、シモン一家にイエスとの関わりが生まれたということになる。
十字架
兵士たちは朝の9時にイエスを十字架につけた。
十字架のもとではくじが引かれる。処刑されるものの服を処刑人が分配する習慣になっていたそうだ。石を投げるくじがあったらしい。争って石を投げ、落ちた先を確かめて着物を奪い合ったのかもしれない。頭上には十字架につけられたイエスがいることも忘れたこのゲームに興じたのだろう。
兵士たちにとって処刑は日常的なことだったのかもしれないが、犯罪人にしろ人が死に直面しているそのすぐ下で着物を奪い合っている。
処刑場にやってきた囚人たちは十字架に堅く縛られるか、あるいは手首を釘で打ちつけらるそうだ。そして囚人たちは十字架上で力尽きて死ぬまで苦しみ続ける。十字架刑は当時もっとも屈辱的な刑で、普通1日か、2日間苦しんでから死んだそうだ。死んだあとの死体も普通は野ざらしにされ、鳥やけものの餌にされていたらしい。
イエスは朝の9時に十字架につけられた。そして十字架につけられてからも、道行く人や祭司長、律法学者たちにあざけられた。「十字架から降りて来い、そうしたら信じてやろう」という風に。またイエスと共に十字架につけられた囚人からも罵られた。
昼3時に息をひきとるまで6時間、十字架の上で苦しみ続けた。どんな痛みだったのか、どんな苦しみだったのか、想像もできない。
神の子が、どうして絶望して死んでいかねばならないのか。そもそもキリストがどうして殺されてしまったのか。本当にそんな人がキリストなのか。神の子ならどうにかしたらどうなのか。そのままじっとして、弱いままで死ぬことはないではないか。そんな気がする。
この時、この光景を見ていた者の中にも、同じように考えている人がいた。31節には「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と言った人がいたと聖書は語っている。
こういうときこそ、奇跡をおこして、十字架から颯爽と下りてくる、それこそがキリストである。私たちもそんな風にしばしば思うのではないか。
奇跡を起こしてこそ神だ、人間にできないことができるからこそ神だ、それをしたら信じよう、そして自分も同じようにして奇跡を起こして助けて欲しい、誰もがそう思うのではないか。
しかしイエスはそうしなかった。ただ黙って十字架にいた。
十字架のもとで
十字架のもとでの兵士たちの姿は、人間の心の奥の有様を見せつけている。人間は十字架のもとでくじを引き合い、着物を分け合った。
くじを引き合い、争っている、そのすぐ横に十字架は立っている。そこに服をはぎ取られたイエスは、十字架につけられている。
十字架の下には人間の本性が現れているような気がする。私たちの心の奥底には兵士たちと同じ思いが渦巻いているように思う。
罪人として処刑される者に気を使うこともない。侮辱しようが何をしようが仕返しをされることもない。
仮に自分が独裁者にような立場になって何でもしたいことができるとなったときに一体私たちは何をするだろうか。今まで押さえていた欲望が吹き出しそうな気がする。どす黒い欲望が吹き出してきそうな気がする。そして実際私たちは誰もがそんな醜い、決して誰にも言えないような欲望を心の奥底に持っているのではないかと思う。
イエスの十字架はそんな人間の真ん中に立っている。そんな人間のどろどろした欲望、罪の真ん中に立っている。しかしイエスはこうまでされてもなおも何もしない。間違いを指摘するでもなく、間違いを正すでもなく、すべてを飲み込んで、すべてをそのままに受け止めて、包み込んで、そして十字架についている。
そんなドロドロした思いを持っている私たちの傍らに十字架は立っている。すべてを背負って、イエスは十字架についている。
共にいる
イエスはどんな時にも見捨てたりしない。人が皆見捨てても、神などいないと言ったときでも見捨てない。私たちが、どうしてこんなことになるのか、どうしてこんなことが起こるのかという時に、イエスは私たちと共にいてくれる。一緒に泣いてくれる、一緒に悲しんでくれる、一緒に悩んでくれる、そういう仕方でイエスは私たちのそばにいてくれる。
私たちの心の中は、人をいじめ、差別し、蔑む思いに満ちている。しかしそんなどす黒い思いの渦巻いている、その真ん中にイエスの十字架は立っているのだと思う。私たちの罪も汚れも何もかも全部引き受けて、全部受けとめて共にいてくれる。
イエス最後の言葉は、わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか、という言葉だった。神よどうして私を見捨てたのか、私たちがそう叫ぶしかない時、しかしそこにもイエスはいる、そんなときにも私たちは一人ぼっちではない。
たとえ全世界が見捨ててもイエスは見捨てない。それがイエスの約束だ。