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礼拝メッセージより
「何をする?」 2014年3月23日
聖書:マルコによる福音書10章17-27節
おみごと
『ある人』がイエスに走り寄ってきた。この人は金持ちであったと書いてある。ここと同じ話はマタイによる福音書にもルカに福音書にもでてくる。マタイではこの人は青年と書いてあり、ルカでは役人と書いている。この人は若い役人だったのか?
この人はイエスに走り寄って、ひざまずいて尋ねている。聖書にはイエスを試そうとか、罠に掛けてやろうとかいう人がたびたびでてくるが、この金持ちはどうやらそういったたぐいの人たちとは違っていた。イエスを尊敬していて、教えていただきたいことがある、この偉大な先生から聞きたいといった気持ちからこういった態度に出たようだ。金持ちという人は、成功者とか勝ち組とかいう意識が強くて威張っている人が多いようなイメージがあるが、この人はそんな人ではなかったようだ。
そしてこの人の質問は「善い先生、永遠の生命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」というものだった。
その後のイエスとの会話によれば、律法は小さいときからずっと守っている、それも自信を持って人に言えるほどだった。お見事、と言いたくなるような人だったようだ。
こういう人こそイエスからお褒めの言葉をもらってもいいんじゃないかと思う。あなたの熱心さはすばらしい、その向上心が大切だとか何とかいってあげても良さそうな気もする。
永遠の命
ところでどうしてこの人はイエスに永遠の命のことを聞きに来たのだろうか。律法はしっかり、きっちり守っていると、自他共に認める立派な信仰者だったようだ。ということは社会的にも優れていると認められているということなんだろう。みんなからも立派な人間だと認められていて、しかもその上金持ちなのに、それ以上何を欲しいのかと思ってしまう。
今の教会で言えば、敬虔なクリスチャンと言われ、礼拝には毎週毎週出席し、収入の十分の一は必ず献金し、教会の奉仕もよくして、おまけに社会的にも信用があり、堅実な仕事をしている金持ち、と言ったところかもしれない。すべきことと言われていることは完全にこなしてきた人のようだ。それ以上何が欲しいの、と聞きたくなるほどだ。
この人は、永遠の命を受け継ぐには何をすればいいかと聞いた。律法をしっかりと守ることは、神との関係をしっかりと持つためなのではないかと思う。そして神との関係をしっかりと持つということが、すなわち永遠の命を受け継ぐことでもあるはずだったんじゃないかと思う。
しかし彼は、律法は守っているけれど永遠の命を受け継いでいるという気持ちになれていないということだったようだ。完全主義者だったのだろうか。もしまだ足りないものがあっては大変だと思っていたのだろうか。
それとも、いくらやっても何かが足りなかったのか、やるべきと言われたことを全部やってきてもぬぐえない不安のようなものがあったのだろうか。何か永遠の命という確信を持ちたかったのだろうか。
何をすれば
「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」と書いてある。律法は子供の時から守ってきました、と答えるこの人をイエスは慈しんでいる。何ということか。そして「あなたに欠けているものが一つある」と言う。どこにも抜かりのない人間のように見えるこの人に対してイエスは欠けているという。そしてそれは「持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」と言うものだった。
この人はイエスの言う通りに出来なかった。だから悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである、と書いてある。
財産を売らなかったことが悪いんだとイエスは言いたかったのだろうか。財産を手放すことが、そして施すことが永遠の命を得る条件だと言いたかったのだろうか。財産を全部手放さないと永遠の命を得られないのだと言いたかったのだろうか。もうしそうだとしたら一体誰が財産を自ら手放すことができるだろうか。
どうしてイエスはこの人を慈しんだのか。それはこの人が、永遠の命を受け継ぐために何をすればいいのか、と聞いてきたからではないか。つまり何かをすることで永遠の命を手に入れようとすることに対して、そういうことではないんだと言いたかったのではないかと思う。
だから、何かをして手に入れようとしているのだったら律法を守ることは知っているではないか、と答えた。それに対してそれは守っていると答えたこの人に対しては、そこまで言うならば、つまり何かをすることで永遠の命を得ると言うならば、自分の財産を売って施しなさい、そんなこと出来ないだろうと言いたかったのではないか。つまり自分で何かをして、その代償として永遠の命を手に入れようとしても出来ない、と言うことを言いたかったのではないか。永遠の命なんてのは自分が何かいいことをして、そしてその代償として手に入れるものではないんだ、と言うことを言いたかったのではないか。
こども
今日の聖書のすぐ前のところでは神の国の話が出てくる。子どものように神に国を受け入れる者でないとそこには入れない、とイエスは言った。神の国とは何かすぐれたものを持っている、すぐれた功績を持っているから入れるのではなく、子供のように何もない、何も持っていない、ただ神の招きを受け入れる者が入れると言っていると思う。
つまり神の国とはただ受け入れる人が入ることが出来るのであって、自分で努力して手に入れる人が入るのではないらしい。立派なことや正しいことをしてきたという功績、業績を持つことで、そこに入ることが出来る、手に入れることが出来ると言うものではないと言うことだ。
神の国に入るということと永遠の命を受け継ぐということは結局は同じことを言っているのだと思うけれど、それはただ死んだ後天国に行くとか今とは違う別の命を持つということよりも、神との関係を持って生きるということなんだろうと思う。
神の命令通り立派に生きてきたという功績によって神との関係を持つ資格を手に入れるわけではない。善い行いをいっぱいしたから神との関係を持つことが出来るのでもない。そうやって初めて神に愛されるというのではない。
神さまの命令をこんなに立派に守ってきました、というふうに自分自身の中にどれほど功績を積み上げたとしても、神の思い、つまり愛されている、大切に思われているという神からの思いを受け止めていないとすれば、神との関係のないままになる。
愛されている、大切に思われているということを受けとめ、受け入れること、そこで初めて神との関係が出てくる。それこそが永遠の命を引き継ぐこと、神の国に入るということだろう。だから、神の国とか永遠の命というもの、それはただ受けるものなのだ。神からいただくもので自分の力で手に入れるものではない。
何をする?
私たちは何をするとかしないとか、何かができたとかできないとかいうことを気にする。しかしそんなことを思う以前に、既に神は私たちを愛してくれている。イエス・キリストは神の国は近づいたと言ったことがあったけれど、神の国はもう私たちのところに来ていると言ってもいいのだと思う。私たちはそれを受け止めるだけだ。
私たちはもうすでに神の国を約束されている、永遠の命を約束されている。神の子とされている。このことを受け入れる者はすでにそうなのだ、とイエスは言う。
もうすでに神の子にされているから、神の国の一員にされているから、永遠の命を約束されているから、だからこの神に従うのだ。もうすでにそうだから、それにふさわしい生き方をするのだ。
奉仕も、善いことも、献げ物も、神の国を永遠の命を得るための手段ではない。神から愛されているから、大事にされているから、神の子とされているから、神の子として神の言葉を聞いていくのだ。
まず第一に私たちのなすべきことはすべてを与えてくれているこの神に感謝することだろう。神が私を愛してくれていることを喜ぶことだと思う。