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礼拝メッセージより
「そのまま」 2014年3月16日
聖書:マルコによる福音書10章13-16節
憤り
「止めるな、そのままにしておけ、邪魔するんじゃない。」と大きな声で言ったんじゃないかな。憤ったと言うんだから。
最近でこそ、子どもの権利条約とかいうのが出来て子どもを大事にしようという風にはなっては来たが、当時は女の人と同様に子どもは大事にはされていなかった。というか一人前の人間とは見なされていなかった。さほど役にも立たないとなると、ただうるさいじゃまな存在でしかなかったのかもしれない。ましてイエスにとっては足手まといでしかない、と弟子たちは思ったのだろう。
多分それは弟子たちのイエスに対する配慮だったのではないかと思う。命の危険を感じつつエルサレムに向かっている時だった。そんな時に女子どものことなどかまってはいられないんだ、という気持ちがあったのかもしれない。イエスに仕える弟子たちにとってはそれは大事な仕事と思えたのかもしれない。
たいそう大事なことになると、女子どもは排除されたりする。女人禁制のものがいまだにある。そして大人なら構わないが、子どもの来るところではない、ということがある。それが宗教的になるとことさら大人の男だけのものになったりする。
しかしイエスはそんな弟子たちの行動に憤った。ただ叱ったとかではなく憤った。これは、このことはただごとではないということだ。でも何でイエスはそんなに憤ったのだろうか。
持つこと
イエスは「子ども達をわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と語った。神の国なんて言うとなんだかとても信仰熱心な人たちのもののような気がする。しかし子どもたちが熱心だったわけではない。子どもたちに特別の信仰があったわけでもない。彼らは大人に連れてこられてそこにいるだけの存在だ。しかし神の国はそんな子ども達のような者たちのものだというのだ。子どもこそ神の国の住人だとすれば、神の国は何も持っていない者がいくところと言えるのかもしれない。
ある人はこんなことを言っている。『人はいろいろなものを持ちたがり、ついには信仰をも持ちたがる。』
人は何もかも持とうとする。いろんなものをいっぱい持つことで自分の価値が出てくるんじゃないかと思うようなところがある。これこれができる、こんな有名な友達がいる、というふうに能力や財産や友達をいっぱい持っていることに価値があるというように思い、大したものを何も持っていない自分を嘆く。
大きな篤い信仰を持つことを目指すようなところがある。しかし、信仰は持つものだろうか。信仰は握りしめていなければならないものなのだろうか。振り落とされないように必死でつかむことが信仰なんだろうか。
何もない
イエスは子どもを「神の国はこのような者たちのものである」と言って抱き上げて祝福した。イエスは何かを持っていないと不安で仕方ない人に対して、「そのままでいい」と叫んでいるのではないか。「何も持っていない、何の飾りもない、そのままのおまえ自身を私は求めているのだ」と言っているのではないか。
口語訳は子どもを幼子と訳している。生まれたばかりの乳飲み子は全く一人では生きていけない。自分を生かしてくれる人がいなければ生きていけない。しかしだからといって自分の世話をしてくれる人、たとえば母親に対して何かをするわけでもない。ただ与えられる物をもらうだけ。でも母親を絶対的に信頼している。信頼しようと決意すらしない。
信仰とは神と私たちのそういう関係なのではないか。信仰なんていうと一生懸命に信じる行為のように思いがちだ。必死に神を拝み倒す、必死に信じようとする、そして疑いや不安をなくそうとする、そんな風に必死で神を掴んで離さないことこそが信仰だと思いがちだ。そういう意味での信仰は子供たち、特に幼子にはまるでない。
しかしイエスは神の国は子供たちのような者たちのものだ、そして子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない、と言われている。神の国を受け入れる人がそこに入るといわれている。神の国を受け入れることこそが信仰なのだろう。何かをすること、何かを持つことではなく、ただ受け入れること、それこそが信仰なのだろう。
だから信仰とは、神の国から降りてきている糸を必死でつかむことではなく、反対に神から自分の手を掴まれていること、あるいは抱きかかえられているということを知ることなんだろうと思う。
そのまま
ある人がこんなことを言っている、『私たちはいつもこの二つの責め言葉におびやかされている。ひとつは「信仰がなければだめだ」。もうひとつは「そんな信仰ではだめだ」。』
こんな信仰ではだめなんじゃないか、と思ってしまう。こんな自分ではだめだと思って自分を責めてしまう。何も持っていない、何も出来ていない自分のことをみんなから、そして神からも責められるのではないかと怯えている。
でもイエスはきっと、何かをもっているかどうかは問題ではない。おまえ自身が、お前そのものが私にとってはとても大事なのだ、そのままのおまえ自身が大事なのだ、そう言われているのではないか。
そう言ってくれているイエスが自分を掴んでくれていること、いつも共にいること、それを受け入れること、つまりそれを認めること、それこそが信仰なのだろう。
神の国とは私たちの努力によって入るところではなくて、それでは決して入れるところではなくて、逆に子供のようにただ受け入れるもの、そのままの自分を受け入れてくれるイエスの招きにただ応えるものだけが入れるところなのだろう。
そのイエスと共にいる、そこが神の国なのだろう。