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礼拝メッセージより
「ため息」 2014年3月9日
聖書:マルコによる福音書7章31-37節
連れて来た
耳が聞こえず、うまく話せない人、ということはろうあ者ってことだろう。
聾唖者はコミュニケーションの障害者だと言われる。情報が入ってこない障害。つまりうわさも耳に入ってこない。
「門前の小僧、習わぬ経を読む」という言葉がある。ほとんど無意識のうちにいろいろなことを聞いて、自然と覚えていく。耳の聞こえる人にとってはそれがごく当たり前で、そうやっていろんなことを知ってきた。でも聾唖者にとってはそれができない。自然と耳に入ってくる、ということがない。周りの人のしゃべりを聞いてそれを真似をすることで言葉や話し方を覚えていくわけで、聞こえない人はと声の出し方を教えてもらってもしゃべることはとても難しいそうだ。
今日の聖書の人は耳が聞こえず舌が回らない、と書かれている。舌が回らないということはうまく話せないということだろう。だとするときっと生まれながらに聞こえなかった人だったのだろう。
そうするとこの人はイエスの噂もあまり知らなかったのではないかと思う。あるいは誰かから手話などで教えてもらっていたかもしれないが、うわさ話が耳に入るなんてことはないので情報量はずっと少なかっただろうと思う。
おそらくそういうこともあって、この人は自分からイエスのところに来たのではない。人々が「連れて来」たのだ。まわりの者が連れてきて、まわりの者がこの人に手を置いてやっていただきたいとイエスに願い出た。
ため息
イエスはこの人だけを群集の中から連れ出した。イエスは自分の業を見世物にすることを嫌ったのかもしれない。この耳の聞こえない人と一対一で正面から向き合いたかった、そのために二人きりになりたかったということだろうか。
イエスはこの人の両方の耳に指を差し入れて、それから唾をつけてその舌に触れられた。まるで魔術師か呪術師のような仕草である。この間イエスは無言のままである。そして天を仰いで深く息をついた。口語訳ではため息をついたと訳している。この深い息、ため息はなんなのか。どうしてため息をつく必要があるのか。
イエスにはこの人の耳と口を開く力があった。そして実際に開いた。でもその、開け、という前に大きな息をため息をついた。もし自分の力を見せつけたかったらため息などつかないだろう。
苦しみにあるとき、望みがなくなったとき、未来が見えないとき、大きな問題を抱えてどうすればいいのか分からないとき、そんな時、人はため息をつく。
イエスはこの耳の聞こえない人の、苦しみや悲しみを思い、感じ取り、自分自身のことのようにまで思い、そしてため息をついたのだろうか。
開け
イエスは現代ではこんな奇跡を行わないのか。確かに、耳の聞こえない人が教会に来て聞こえるようになった、という話は現代ではあまり聞かない。神は奇跡を行わなくなったのか。福音書を見るとイエスは十字架に近づくにつれて奇跡をあまり行わなくなったようでもある。十字架上でも奇跡を起こしはしなかった。奇跡を起こして十字架から降りてくる、なんてことはなかった。だんだんと奇跡を起こさなくなっていったようにも見える。なぜか?最初はあなたの信仰があなたを救った、と言っていろいろと奇跡を起こしていたようなのに。
イエスは進んで奇跡を起こしてはいないのだろうか。少なくとも奇跡を人に見せるためにしてはいないようだ。自分の評価を上げるためにしているわけではなさそうだ。却って奇跡を起こす者という見方をされることを嫌っている風でもある。ただ目の前につれて来られた人を見るに見かねてしたようにも見える。
このため息、深い息はどういう意味だったのだろう。みんなに連れ回されてイエスのもとに連れてこられたこの耳の聞こえない人の有り様を嘆いてのことのなのか。そもそも人々がこの人を連れてきたのはどうしてなのか。純粋に好意からなのか、この人のためを思ってか。それとも奇跡を見てみたいから、イエスがどんな風に癒すのかを見てみたいから連れてきたのだろうか。
この耳の聞こえない人にとっては自分から主体的に生きるすべはこの時代にはなかったのだろう。耳が聞こえないというハンデを背負って、いつも耳の聞こえない○○さん、神に見捨てられたかわいそうな人と見られていたのではないかと思う。あるいは世話をしてあげないといけない面倒な人という見方をされていたのかもしれない。
そんな苦しい境遇に対して、またそういう風にしかこの人を見ていない群衆、社会を嘆いてのため息だったのかもしれない。
嘆き
人間を人間として大事にしない社会を何時もイエスは嘆いていた。神の名において人を差別することに対しては断固として反対してきた。
イエスのため息は、耳が聞こえない人をだしにして癒してみろというような、そして聞こえない人たちを一人前の人間と認めないような人たちや社会に対するため息だったのではないかと思う。
しかしこの人のいやしはこのため息から始まった。
イエスは、本当にこいつに奇跡を起こせるのかと人々が興味本位な目で見つめるようなところでも癒しを行ってきた。安息日の律法を破ってまで人を癒すのかと挑発されるような時にも癒してきた。
周りの群衆がそんないろいろな思いで見つめる中で、しかしイエスは病気の者、苦しんでいる者、疎外されている者を見つめている。そして奇跡を行ってきているようだ。そんな時に奇跡を起こしたらやり玉にあげられると思うような時でも、そんな時にいやしたら命を狙われると思うような時でも、イエスはそんなことよりもただ目の前の苦しむ者を見つめている。その苦しみを見つめて、苦しみから解放するために奇跡を行っているようだ。
ため息
イエスのいやしのわざは人々が連れてきた人と出会うということから始まった。今日の箇所では誰かの信仰の故にこれを行ったとは書かれていない。信仰などというものとはまるで関係のないところでイエスは自分の業を行った。純粋に信じたからその信仰の代償として癒やしたわけではない。あるいは一所懸命に祈ったからそのご褒美として、癒しや奇跡があったわけではない。
ただイエスと出会い、イエスが憐れむところに奇跡が起こった、癒しがあった。イエスがため息をつき涙を流した、そこに奇跡が起こった。
私たちの現実もため息をつくようなことがいっぱいだ。いろんな苦しみにため息を付き、苦しみを前にして自分の無力さにさらにため息をつく。ため息ばかりだ。
しかし私たちはそんな時でも決して一人ぼっちではない。私たちがため息をつく時、そこでイエスも一緒にため息をついているに違いない。一緒にため息をついてくれるイエスがいる。
きっとそこで私たちは力づけられ元気になっていく。あるいはそれこそが癒しなのではないかと思う。見えない神が、イエスが共にいてくれている。インマヌエル!
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