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礼拝メッセージより
「渇きは大切」 2014年3月2日
聖書:マルコによる福音書6章14-29節
死
バプテスマ(洗礼者)のヨハネの壮絶な死の様だ。
ヨハネは率直な言葉と行動でその時代の良心であろうとした人、真理を目指し、愛し、指さし、その声となり、その道を備えようとした人、イエスから「女の生んだ者の中で最大の人物」と言われた人だった。
そのバプテスマのヨハネは生きている間はむくわれることなく、そして死もとても納得いかないものだった。
ヨハネは一生懸命イエスを指し示し続けた。先駆者の役目をはたしとおした。妻をめとるわけではなく、生活を安定させるわけでもなく、ボロボロの毛ごろもを着て、腰に革の帯をしめ、いなごと野密を食べ、ひたすら、イエスを指し示す「指」に徹して生きた。それなのに何という死なのだろう。
こんなことになる前に、打つ手はいくらでもあったはずだ。そもそも本当のことを言わなければ良かった。「兄弟の妻をめとるのはよろしくない」とか「まむしの子らよ、悔い改めにふさわしい実を結べ」なんていわなければ、自分の命を取られるなんてこともなかっただろうに。
権力者が不正をしたり、民衆をしいたげたりしても、そういう人が自分の地位を守ることだけを考えていても、わいろを取っていたりしても、口出ししなければ、あるいは当り障りのないりのないことだけを言っていれば、こんなことにはならなかっただろうに。
預言者であることや、時代の良心、世の塩であることをきっぱりやめて、ヨハネ自身がこの世に合わせて、生きていれば、世渡り上手に生きていれば、でもそれはヨハネがヨハネでなくなることだろうけれど、もっともっと長生きできただろう。でもヨハネははヨハネであることをやめなかった。真実を語った。それはイエスや弟子たちにも通じることでもある。
「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」(テモテへの手紙二2:9)
「また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。」(ヘブライ人への手紙11:36-38)
まず自分のことを最優先させる者、そのためには人をだまし、ごまかすことさえする者、そんな者の支配するこの世にとって、ヨハネはまったくふさわしくない者であった。
だからこそ「この世にふさわしくない者」が重要になってくる。欲の世界に希望や信や愛を運び込む者が大切な存在となってくる。そしてその先頭にヨハネがいた。
力
それに対しヘロデはどうだったのか。食べたいものを何でも食べ、豪華な宮廷に住み、贅沢三昧の暮らしをし、欲しいものは手に入れることもできた。なんでも自分の好きなようにすることができたヘロデ。しかしそんなヘロデにも魂の渇きといったものがあったのだろう。だからこそヨハネの話しに喜んで耳を傾けていたのだろう。
ずっとヘロデとヘロディアってまぎらわしい名前だなあと思っていた。そしてこの二人がこんがらがっていた。ヘロデはヨハネを正しい聖なる人であると思ってヨハネの話にも耳を傾けていた。実は19節のヨハネを恨み殺そうと思っていたができなかったのもヘロデだと思っていた。どうして正しい聖なる人を殺そうと思うのか不思議だった。そしたら殺そうと思っていたのはヘロディアだった。そこで少し謎は解けた。
しかしヘロディアとの結婚を非難されたのに、それでもやっぱりヘロデはヨハネを正しい人と思っていたのだろうか。正しい人と思いつつ牢につないでいたということなんだろうか。あるいはヘロディアにそそのかされてヨハネを捕まえたということなんだろうか。
だとしたらヘロデは自分の気持ちを押さえてヘロディアや、そして周りの雰囲気に振り回されていたということなんじゃないかと思う。ヘロディアの娘、と書かれている所を見るとヘロデにとっては自分の実の娘ではないのだろう。義理に娘にいいところを見せたいという思いや、周りの者達へ自分の権力を見せつけたいという思いから、その場でかっこいいことを言ってしまい引込みがつかなくなってしまったような気がする。本当はヨハネの処刑などしたくもないのに言い出せなくなってしまったんじゃないかと思う。
自分をもっと強く、もっとかっこ良く見せようとしたために、逆にそのことで自分を苦しめることになってしまったんじゃないかと思う。
本当は殺したくなかったヨハネを処刑してしまったことでヨハネが生き返ったという噂に怯えてしまっているのではないかと思う。
愛されて
人間にとって本当に大事なことは何なのだろうか。
自分が儲けること、力を得ることを優先させ、そのためには人を犠牲にしても仕方がない、相手に負けないことが大事だ、というのがこの世の流れだ。いっぱい儲けていっぱいお金を貯めることが正義であるかのような社会だ。
しかしイエスは愛することが大事だと言った。いたわりや思いやり心遣いが大事だと言った。そんな神の言葉をしっかりと聞くこと、そんな神とのつながりが大切であることをヨハネも語っていたのだと思う。そしてヘロデも多少なりともそう思っていたんじゃないかと思う。けれどもヘロディアや周りに流され、自分の持つ力でヨハネを処刑してしまうことになってしまった。
力を持つことで、その力を行使することで結局ヘロデは苦しむことになった。ヘロデがヨハネの話をよろこんで聞いていたのは、ヘロデの中に弱さや満たされない思いのようなものがあったからなんだろう。なのに人前では弱さを見せてはいけないと思い、その弱さを隠し強がっていたのだろう。そこにつけ込まれたためのヨハネの処刑だったように思う。
まずは自分が渇いているということを自覚しないといけないのだろう。そしてその魂の渇きを潤すものが何なのかということを忘れないようにしないといけないのだろう。
この世の中はやっぱりお金の論理で動いているように思う。お金を持つことを目指し、そのために力を持つことを目指しているように思う。でも人間の渇き、人間としての渇きを潤すものはお金でも力でもない、愛なんだと思う。聖書はそのことを繰り返し告げている。
愛では金持ちにも権力者にもなれないだろう。しかし人間には一番大事なものなんだろうと思う。自分自身がその愛が必要な人間であることを認めること、神が自分を愛してくれているという、その愛を受け止めること、それが私たちにとっての第一歩なんだろうと思う。