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礼拝メッセージより
「見よ」 2014年2月23日
聖書:ヨハネの黙示録21章1-4節
幸福
この前ラジオを聞いていると、人はどうなると幸福を感じるのかというような話をしていた。周りと比べて自分の方が優れていると思えること、お金だったり名声だったり、周りよりも自分の方が多く持っている者が幸福だと思えると言っていた。確かにそうだなと思いつつ聞いていたけれど、その他にこういう人は幸福度が高いというものの中に、宗教を持っている人というのがあった。
周りよりも優れていることで幸福を感じるけれど、いつなにが起こるかわからないし、自分よりも優れている者が現れると幸福でなくなってしまう。周りとの比較ではない、もっと違う拠り所を持つことによって人は幸福を感じるんだろうなと改めて思った。
新しい
黙示録は、教会が迫害されていた時に書かれたものだ。当時はローマ帝国の時代で、ローマ皇帝を崇拝しないといけないという圧力がかかっていた時代だった。ローマ皇帝ではなくキリストを崇拝するとは何事か、と教会が迫害されていた時代に書かれたのがこの黙示録だ。
黙示録には頭がいくつもあったりするような姿形もよくわからない竜や獣などが登場し神との戦うことが書かれている。言わばそういう天上での戦いの影響がこの地上での苦しみ、皇帝崇拝を強要されるという苦しみにつながっているというわけだ。そして今の苦しみは獣たちの最後の悪あがきのために起こっていることであって、結局は神が勝利するのだということを伝えて今のこの苦難を耐え忍ぶようにと力づけている書物だ。
そして今日のところでは新しい天と新しい地を見た、と書かれている。また聖なる都新しいエルサレムが天から下ってくるのを見た、と書かれている。
苦しみに会っている者に対して黙示録は、神の言葉として、最後の時には全てが新しくなると語る。新しい天も地が天からやってくるというのだ。それってどういうことなのだろう。ほとんど想像もできない。しかし苦しみの中にある者にとって、その苦しみが過ぎ去る新しい世界が来るという希望を抱かせるものだ。
見えるもの、見えないもの
当時の教会にとっては苦しい現実が目の前にあった。しかし目に見えるものだけが現実ではない、見えない現実があるんだ、ということをこの黙示録は伝えているようだ。
そうは言っても見えないものはやっぱり見えにくい。見えるものに目を奪われるのが私たちの現実でもある。実際に目の前にある苦しみの方に目が奪われてしまう。
大きな苦しみを前にして私たちは圧倒されてしまう。どうしようもない無力感に押しつぶされそうになる。そして更になんでこんなことくらいでこんなにうろたえるのかと自分自身を嘆いたりする。
見よ
そんな苦しみの中にある者たちに黙示録は告げる、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
苦しみや迫害というような見えているものの中に、見えない神がいてくれる、見えない神が共にいてくれる、そして涙をことごとくぬぐい取ってくれる、そんな見えない神を見よ、と言うのだ。
最初のものは過ぎ去り、全く新しい天と地が天から下ってくるのはまだもう少し先なのかもしれない。しかしただ現実の苦しみだけを見るのではなく、その苦しみの隙間から見えない神を見なさい、共にいて、共に住んでくれている神を見なさい、そう言われているようだ。
信仰
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Uコリント4:18)
教会も人が少なくなって、会計も大変になって、どうしたものかと心配ばかりだ。日曜日になると礼拝の人数も少なくなってそんな現実をつきつけられて苦しい気持ちがいっぱいだ。
神さまが何か起こしてくれないだろうか、大勢の人を寄越してくれないだろうか、と期待するけれどなかなかそうはしてくれない。
本当に神は共にいてくれているのだろうかと思う。どこに希望があるのかと思う。しかしそんな希望のないと思うようなところにも、絶望しかないようなところにも、神は共にいてくれているのだと黙示録は伝えているような気がする。
絶望の中に希望をもたらす力はそんなところにあるのではないかと思う。だから神を見よ、見えない神を見よ、と伝えているのだろう。
いやそもそも教会が大きくなることが大事なんだろうか、人が増えることが祝福なんだろうか。たとえ人数は少なくても、こうやって一緒に神の言葉を聞くことこそが祝福であり恵みであるような気がしてきた。それこそ他の教会と比べて自分が不幸だと思っているようだ。もちろん人が少ないと会計が厳しくて生活も厳しいのは現実だけれど、しかし一緒に礼拝し一緒に讃美歌を歌い一緒に祈る人がいること、いつの間にかその大切なことが見えなくなっていたような気がしてきた。
見えない神を見るということを通して、そんな見える現実さえも見てなかったことを知らされたような気がする。ただ見えないものを見るというよりも、現実を通して、現実をしっかり見て、そこから見えない神を、見えない神の導きを見つめることが大事なのかもしれないと思った。