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礼拝メッセージより
「苦しみを生きる」 2014年2月16日
聖書:ヨハネの黙示録13章11-18節
安楽死
先日ベルギーで子どもの安楽死を認めるという法律が成立したというニュースを見た。「末期がんなど終末期の病状がある子どもの患者に対しても、耐え難い肉体的な苦痛が続き、十分な判断能力があることなどを条件に、両親の合意と医師団の承認のもとで安楽死を認めています」と書いてあった。
苦痛が続くということは本当に耐え難いことだ。肉体的にも精神的にも、苦痛が続くというのは本当に大変だ。終わりが見えれば、あるいは終わるという希望が持てればまだ耐えられるかもしれないが、いつ終わるともしれない苦痛にはなかなか耐えられない。花の命は短くて苦しきことのみ多かりき、といった人がいるらしいけれど確かに苦しいことが多いなと思う。どうにかしてよ、と思うことの多い日々だ。
竜
ヨハネの黙示録は苦難の中にある教会を励ますために書かれたものだ。
12章で竜は天上の戦いに敗れて地上に落とされる。そのために地上では苦難が起こる。しかしその苦難は悪魔の勝利の徴ではなく、敗北の結果なのである。しかしその竜は海辺の砂の上に立った。そこから恐ろしい苦難が始まる。
獣
13章で2匹の獣が登場する。1匹は海から、もう1匹は地中から登場する。 第一の獣は妙な姿をしている。十本の角と七つの頭。角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまな名が記されている。一体どういう構造なのか悩んでしまう。またその獣は、豹に似ていて、足は熊の足のようで、口は獅子のようであった。滅茶苦茶な姿をした獣だ。そして頭の一つが傷つけられて死んだとと思われたのに致命的な傷も治ってしまった、という恐ろしい獣でもある。そして竜が自分の権威をこの獣に与えたので人々は竜もこの獣も拝んだというのだ。
旧約聖書の中にダニエル書というのがある。その中にヨハネの黙示録と同じような書き方がされているところがある。黙示文学と言われるもの。
そのダニエル書の7章に、4頭の獣が出てくる。第一のものは獅子のような獣、第二は熊のような獣、第三は豹のような獣、第四の獣はものすごく恐ろしく非常に強く巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった、そしてその獣には10本の角があった、という。この4頭の獣は当時のイスラエルを苦しめたバビロニア、メディア、そしてペルシャの後を継いだエジプトとシリアという4つの国を表している。そして10本の角は10人の王のことである、というようなことが書かれている。この国は聖なる者を悩ますが、一時期、二時期、半時期の後に裁きの座が開かれ、人の子のような者によって滅ぼされる、となっている。つまり、実際に自分たちの国を苦しめた国や王のことを獣や角という言い方をして暗示しているわけだ。
ヨハネの黙示録の獣はこのダニエル書の四頭の獣をひとまとめにしているわけだ。13章の前半に出てくる獣には十本の角と7つの頭があったとあるが、この七つの頭というのは、カナン地方の原住民の神話の中に出てくるレビアタンという蛇のような竜のような獣が七つの頭を持っていて、そのレビアタンの姿に似ている。またレビアタンと対となって登場するベヘモートという獣がいるが、そのベヘモートは荒れ地を代表する獣であり、これが今日の聖書の箇所に出てくる第二の獣の背景となっている。つまりダニエル書に出てくる獣と、カナン地方の神話に出てくる獣の両方の特徴を参考にしてというか、それを真似て今日の箇所の獣が描かれているわけだ。
そしてこの獣は黙示録が書かれた当時ユダヤ地方を支配していたローマ帝国のことを暗示している。かつてイスラエルを苦しめた四つの国を合わせたような強力な国、そしてイスラエルにとっては西の海からやってきて自分たちを支配しているローマ帝国を表しているということだ。だから姿が豹に似ていて足が熊で口が獅子でもいっこうに構わないというか、細かな姿がどうであるかということにはほとんど関心がないようだ。その姿が一体どんなだったのかと真剣に考える必要はない。それが一体何を意味しているのか、何のことを言っているのかということを考えることが大事だ。
ローマ
13章の中で竜が獣に権威を与えたために、獣を拝まなければならなくなるということが書かれている。これはローマ帝国によって皇帝崇拝を強要されるということを指しているようだ。
また、3節には獣の頭の一つが傷つけられて死んだと思われたがこの致命的な傷も治ってしまった、とあって、12節にはその獣を拝ませたということも書かれている。
当時、ローマ帝国にネロという皇帝がいた。ネロは民衆の支持を失って紀元68年に自殺をした。ところが暴君と言われたネロが死ぬと、まもなく「ネロが再びやってくる」という噂が一般的に広がってきたそうだ。ネロが自殺したこともあって本当に死んだのだろうか、という疑いもあったそうだ。そのころ、現在のイランあたりにパルテアという民族がいた。ネロは生前ペルテア民族と友好関係をもっていたので、そういうことから、「本当はネロは死んだのではなく、パルテアに逃げており、やがてパルテアの軍勢を率いてローマにやってきて報復する」という噂が広がっていたそうだ。実際に「自分こそネロだ」と言ってこの噂に便乗した者が何人もいたらしい。ここではそんなこともあわせて、その強大なローマ帝国によって皇帝礼拝が強要されることが言われている。
惑わす者
そんな風に第二の獣は、人々を皇帝礼拝を強要する者ということになる。また皇帝の像を造るように命令した。その像がものをいうことを出来るようにもさせたなんて書いている。そしてその像を拝もうとしない者を皆殺しにさせた。また全てのものに、その右手か額に刻印を押させた。そしてその刻印のない者は物を売ることも買うことも出来なくなったというのだ。
獣の像を拝まない者、つまり皇帝礼拝をしない者は社会生活をさせなくしてしまったというのだ。村八分にされた、あるいは非国民とされたということだろう。実際に皇帝の像に犠牲を捧げたというような証明書も発行されたそうだ。
そしてその刻印は666のという数字であるという。これは皇帝であったネロを意味する。これはゲマトリアという方法で、それぞれの文字にはそれに相当する数字があって、たとえばaが1、bが2、というようになっている。10とか100とかに相当する文字もある。そういう方法で皇帝ネロを数字に当てはめて足すと666になるそうで、ネロの数字が666になるということを当時の教会の人は知っていた。もちろん名前を数字に置き換えて666になる人は他にもいっぱいいただろうけれど、獣を拝ませる666と言えばそれはネロを指しているということは当時の教会の人はわりとすぐに分かったそうだ。
当時の教会にとって皇帝礼拝をしてそのための刻印、証明が必要になるなんてことは大変な事態であった。キリストが主である、皇帝礼拝はしないと告白することは非国民とされ、また命が危険になるということであった。そんな状況の中で、キリストが主なのか皇帝が主なのか、キリストを拝むのか、それとも皇帝を拝むのか、お前はどっちなんだといつも聞かれているようなものだ。
苦しみを生きる
この黙示録を聞く教会の人たちにとってはこの獣の姿がそのダニエル書に出てくる獣の姿であることをよく知っていたようだ。ということは、その獣がやがて人の子のようなものによって滅ぼされてしまう、ということも知っているということだ。つまり今の苦難も、やがて起こるであろうさらにひどい苦難や迫害も一時のことでしかないということを意味しているということも知っているということだ。
13章の前半のところを見ると、獣は誰も肩を並べることができないほど、誰も戦うことができないほど強い。しかし地上のだれもがこの獣を拝むであろうという。この獣には、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、42ヶ月の間、活動する権威が与えられた。
42ヶ月は12章でも出てくるけれど3年半である。7年の半分だ。黙示録では7とは完全数で時間的には永遠をも意味する。しかしその半分ということは有限な期間、ずっと続くのではない限られた間ということを意味するようだ。つまり獣が暴れる時間もやがては終りが来るという限られた間だけである、やがては終わりが来るということだ。
12章を見ると、この獣たちに権威を与えた竜は天において天使たちとの戦いに負けて地上に落とされたと書かれている。つまり天上での戦いでは竜は敗者であり、その敗者が少しの間地上で暴れているにすぎないということだ。天上での戦いは神の側の勝利ということですでに決着が付いているということだ。今目の前にある苦難は、敗者の最後の悪あがきにしかすぎない、もうすぐそれも終わる、だから既に勝利している神に信頼してこの苦難を耐え抜こう、黙示録はそう励ましているようだ。
しかし天上のことは私たちには見えないし、この苦しみがいったいいつ終わるのかもわからない。終わりが見えない苦しみを耐えるのは大変なことだ。
でもふと思った。私たちにはイエス・キリストがいると。一人ぼっちでいつ終わるともしれない苦しみを耐えるなんてことはできそうもない。しかし私たちはひとちぼっちではない。この苦しみの中にイエス・キリストは一緒にいてくれている。この苦しみは神に見捨てられたための、イエスに見捨てられたための苦しみではない。イエスは決して見捨てないのだ。どんな時でも、どこまでも一緒にいてくれる。
苦しみばかり多い人生だ。しかし私たちはイエスと共にその苦しみを生きることができる。大変だけれど、さあわたしと一緒に行こう、私と一緒に生きよう、と言われているのではないかと思う。