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礼拝メッセージより
「自分であること」 2014年2月9日
聖書:ヨハネの黙示録1章9-20節
少数派
オリンピックが始まったけれど、欧米の首脳たちの多くがロシアが同性愛禁止法を制定したことに反対して開会式に出席しなかったなんて話しがあった。でも本当はテロを恐れているからではないかという話もあったが、それはさておき最近になって少しずつ同性愛など性的少数者と言われてる人たちのことが知られるようになってきた。
先日サッカーの番組の中で、プロのサッカー選手は自分がゲイであるということを公表している人が少ないのではないか、という話をしていた。LGBTだったかな、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル、トランスジェンダーのことを意味しているというような話もしていた。もっと多かったような気もするけれど忘れてしまった。
その番組に出ている人が、「やっぱり自分であることを認められないということは辛いことだ、苦しいことだ」というようなことを言っていて、自分であること、という言葉があれから妙に心に残っている。
本当の自分の気持ちを言えない、聞いてもらえない、受け止めてもらえないというのは本当につらいことだ。そのために本心を言えず、周りに合わせて無理をして生きていく、それは自分で自分に嘘をつくようなことでもある。
本当のありのままの自分を認めてもらい、受け止めてもらう、それはどれほどうれしいことだろうか。
この社会で生きていくにはなかなかそうもいかないことも多い、なんて言ってまた自分を隠してつい自分に自分を嘘をついてしまっているのかな。でもイエスは自分が自分であることを徹底的に認めてくれているように思う。ありのままの自分を徹底的に肯定してくれているように思う。あなたはあなたでいなさいと言われているように思う。
教会はお互いを、弱さや惨めさやだらしなさ、それに過去の間違いや失敗、そんな決して誰にも口にできないようなことも全部ひっくるめたお互いを認めあう、受け止めあう、そんなところなんじゃないかなと思う。それが愛するということなんじゃないのかなと思う。
ローマ帝国
黙示録の書かれた時代は1世紀末。その頃はローマ帝国が支配していた時代。パレスティナで戦争が起こった。この戦争はローマとユダヤ教反逆者の戦いということだったらしい。その後ユダヤ教徒とユダヤ人キリスト者が移民や難民としてアジアにやってきた。アジア、今で言えばトルコのアジア側の地方になるが、そこにはユダヤ人が以前から住んでおりかなりの力を持っていて、ローマからもある程度認められている存在だった。
当時ローマ帝国は皇帝を神として崇拝するようにという命令を出すようになっていたが、ユダヤ人には、皇帝のために祈るということで皇帝に対して祈ることはしなくてもいいという特例を認めてもらっていたそうだ。キリスト者の多くも当初はユダヤ人が多かったこともあり、自分たちもユダヤ教の一派であると思っていてローマ側もそのように認めていた。しかし戦争を機に、ユダヤ教としては改めてユダヤ人とは何者かということを吟味することになったそうだ。
しかしキリスト教は次第に異邦人へも伝道し、ユダヤ人だけの宗教ではなくなっており、何よりイエスをキリストと認めるということはユダヤ人にとっては受け入れられないものだった。ユダヤ教としてはローマと戦ったことによって自分たちの立場を明確にする必要に迫られ、異端的なものを排除することになった。
クリスチャンは、肉を食べ血を飲むという噂があったり、そもそも反逆者であったイエスを神とあがめているというようなこと、あるいは社会的に差別され抑圧されている者が多かったことなどから、非国民と見なされ危ないグループという風に見られていた。
ユダヤ教の傘の下に入れてもらえているときには、皇帝崇拝をしなくとも認めてもらえたキリスト教だったが、ユダヤ教と決別するとなると皇帝を崇拝しないといけなくなってしまう、しかし人間である皇帝を礼拝できるわけもなく、そうすると危機にさらされることになる。
64年にローマで大火事があったときに、時の皇帝ネロはキリスト者を放火罪で告訴し、逮捕し、その中の多くの者を処刑できたのはそういった背景があったからのようだ。そんなことから社会的には部外者とみなされていて、しばしば社会的・経済的な差別を受け、常に緊張し、いろいろな攻撃にさらされていた。皇帝崇拝を強要される中で、ただ真の神のみを礼拝するということで皇帝を崇拝しないということは大変なことだ。信じる神ではなく信じていない皇帝を崇拝させられるということは自分であることを否定させられることでもある。
黙示録
そんな自分の信念を否定する圧力が加えられていた時に、ヨハネが自分に関係していた教会に向けて書かれたのがヨハネの黙示録だ。
形としては黙示文学と言われるもので表現は映像的なことが書かれている。怪獣のようなものが登場するようなことが書かれているがそれらも何かを象徴的に表していることだと思う。黙示録が将来起こるであろう歴史的な事柄を予告しているのではないか、これは20世紀のこのことを言っていたのだ、なんていう風に言われることもあるが多分そういうことではないと思う。
そうではなく、いろんな迫害や差別、攻撃にさらされている教会に対する励ましの手紙、それがヨハネの黙示録だ。
キリスト
そしてこのヨハネの黙示録の中心がやはりイエス・キリストである。黙示録の著者は終末がもうすぐやってくると語る。終末は何もかもがなくなり崩れてしまう時、ということではなく、イエス・キリストが再び来られる時である。この世の悪と不正をただされる時でありそれは私たちにも恐れを起こさせる。しかしそれは神がこの世界に罰を与えるための時というよりも、この世界を整え、神が完全に支配する時ということのようだ。そしてその時イエス・キリストは再び来られるという。そしてその時はもうすぐだというのだ。もうすぐイエス・キリストが来られる、だから今の苦しいときも堪え忍んでいこうという励ましの手紙、希望の手紙それがヨハネの黙示録だ。
キリストの姿
今日の聖書の箇所にはヨハネに声をかけたキリストの姿が書かれている。人の子のような方で、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めて、髪の毛は真っ白で、目は燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅう、なんて書かれている。これは旧約聖書に出てくることを用いて書いているようだ。偉大な力を持った神であるキリストがそこにいた、そのキリストからの伝言なのだと言っているようだ。
苦しみ
その伝言を聞くキリスト者たちは、現実にはいろんな差別や迫害がある中に生きていた。キリストを信じるということ、その信仰を守ることが命の危険にさらされるというような状況であった。
そんな状況の中でもヨハネは自分たちの信仰を守ろうと励ましている。しかしそれは信仰を守ることで天国に行けるからとか、立派なことだからとかいうことではないんだろうと思う。
そんなことよりも、信仰を守ることが自分自身を守ること、自分が自分であり続けることだからだろうと思う。性的少数者の人たちが自分の気持ちを大事にすることが自分を守り自分であり続けることであるように、自分の信仰や信念を守ることは自分であり続けること、自分であることを大事にすることなんだろうと思う。
イエス・キリストは私たちのありのままを大切である、大事であると言ってくれていると思う。イエス・キリストは社会から阻害されている差別されている人たちのところへ出かけて行き、その人たちをそのままに愛し、その人達と生きた。そんな人達を愛し、そんな人達を大切に思っていたからだろう。その人たちのそのままの思い、そのままの生き方を肯定していたからだろう。
私たちは周りからいろんな圧力を受けつつ生きている。そんなことでどうする、そんなこと考えてはいけない、という声なき声が私たちを押しつぶそうとする。本心を押し殺して、本当の願いを押さえつけないといけないような、そんな圧迫に押しつぶされそうになる。
しかしイエス・キリストは自分を大事にしなさい、自分でありなさい、貴方自身が大事なのだ、本当のあなたが大切なのだ、ありのままのあなたを愛しているのだ、そう言ってくれているのだと思う。
ヨハネも当時のクリスチャンたちもそういうところに喜びを感じていたのだと思う。だからこそその自分の信念や信仰を大事にしよう、守っていこうと言っているのだと思う。