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礼拝メッセージより
「死んでも生きる」 2014年2月2日
聖書:ヨハネによる福音書11章28-44節
病人
ルカによる福音書の10章にマリアとマルタの話しが出てくる。マルタは接待に忙しくしていたがマリアはイエスの話を聞いてばかりだったので、マルタはイエスに何とか言ってくれと頼んだ、という話しだ。そしてヨハネによる福音書11章はその姉妹にラザロという兄弟がいて、そのラザロが病気であったという話しだ。
ラザロが病気だということで、姉妹たちはイエスのもとへ使いを送る。命に関わるような重い病気だとなれば取るものも取りあえず急いでそこへ行きそうな気がするが、イエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」とかなんとか言ってなかなか出発しない。そして知らせを聞いてから二日間そこにいて、それからやっと出発したというのだ。さらに、昼間歩けばつまずくことはない、なんて良いながらのんびりと旅をしていたかのようにも見える。
イエスがその時どこにいたかというと、すぐ前の10章を見ると、ヨルダンの向こう側、バプテスマのヨハネが最初にバプテスマを授けていた所であり、1章を見るとそこの地名もベタニアとなっている。
マルタとマリアの住んでいるベタニアから、イエスがいた川向こうのベタニアまで、急いで行っても丸一日はかかるそうだが、どうしてイエスは急いで出発しなかったのだろうか。理由は書かれていないのでよく分からない。イエスの言葉から推測すると、この病気は死ぬような病気ではなく、何があっても神の栄光のためなのだから急ぐことはない、ということだったのだろうか。
そもそもイエスはどうして川向こうのベタニアにいたのか。10章を見るとイエスはユダヤ人たちと口論して、ユダヤ人はイエスを石で打ち殺そうとしたり、捕まえようとしたことが書かれている。イエスはそのユダヤ人から逃れて川向こうのベタニアに来ていたらしい。
ユダヤ人に捕まって処刑されるかもしれないという不安と恐怖もあったのかもしれないが、そんな時にこともあろうにユダヤの、それもエルサレムから3キロしか離れていないベタニヤへ行くというのはイエスにとっても結構勇気のいることだったのかもしれない。
イエスはラザロたち兄弟を愛していたとある。しかしそこへ行くということはラザロを助けることにはなっても、反対に自分の命を危険にさらすことになってしまうことだった。イエスは知らせを聞いた後二日間そこに滞在した書かれているが、イエスが二日間悩んでいたということだったのかもしれないと思う。しかしイエスは自分の命を賭けてベタニアへと向かう。悲しみに打つひしがれているであろうマルタとマリアに寄り添うという決意を固めて出発する。
涙
しかしイエスが到着したときにはすでにラザロは死んでいた。すでに四日も経っていたと書かれている。
イエスを迎えたマルタは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言う。遅い、遅すぎる、どうしてもっと早く来てくれなかったのかという気持ちが充満している。マルタは、しかしあなたが神にお願いになることは何でも神はかなえて下さると承知してますと言う。イエスはラザロが復活するという話しをすることになる。マルタは終わりの日の復活のことは知っていると言うが、イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」という。マルタは「はい、主よ、あなたが夜に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と答えた。イエスの質問とマルタの答えはちょっとずれている気がする。マルタはよく分からないまま答えたような感じがする。
その後マルタは家に帰ってマリアを呼ぶ、というところが今日の聖書の箇所になる。イエスはマリアが悲しみにうちひしがれている様子を見て心に憤りを覚えた、そして涙を流されたと書かれている。イエスは何に対して、誰に対して憤ったのだろうか。自分の力を信じないで泣いているマリアたちに憤ったのだろうか。しかしどこに葬ったかを聞いた後にイエスは涙を流されたと書かれている。だとするとイエスはマリアたちにではなく自分自身に憤っていたのかもしれないと思う。ラザロが病気で危ないから早く来てくれと聞いたけれども、自分の命を狙う者たちが大勢いるエルサレムにほど近いベタニアに行くことをためらったそんな自分自身に憤っていたのかもしれないと思う。そしてまたマルタやマリアをこれほどまでに悲しませている、そんな状況、そんな現実に対する憤りでもあったのではないかと思う。
揺れて
イエスは神なのだから、キリストなのだから、何ものにも動じることもなく、悩むことも恐れることもないのかと思っていた。自分が命を失うことに対しても、それがみんなを救うための自分の務めなのだと平気なのかと思っていた。感情の起伏なんてものもなくて、いつも冷静にというか、結構冷たい目で周りの者たちを見ていたのかと思っていた。
でもどうやらそうではないようだ。イエスは憤ったり涙を流したりする人だった。結構熱い奴だったようだ。愛する者のためには自分の命をかけて行動するような方でもあったのだろう。
生きる
私たちの人生にはいろんな風が吹きあれる。思わぬ大変な事態が何度も何度も起こる。そして私たちはそんな風に揺さぶられて生きている。悩み苦しみ涙流しながら生きている。
イエスはそんな私たちの弱さも無力も間違いもだらしなさも全部受け止めてくれる、私たちが揺さぶられる時に一緒に揺れてくれる、悩んでいる時に一緒に悩んでくれる、苦しんでいる時に一緒に苦しんでくれる、うめいている時に一緒にうめいてくれる、そんな仕方でイエスは私たちに寄り添ってくれているのだろう。そこで始めて私たちは癒され、力づけられる、生きる力が与えられるのだろう。
イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネによる福音書11:25-26)と言った。
私たちと一緒に揺れてくれて、一緒に嘆き涙してくれる、そうやって私たちを根底から支えてくれる、そんな神との関係、イエスとの関係はたとえ肉体の死を迎えたとしても消えることはない、そのことをイエスは「わたしを信じる者は死んでも生きる」と言ったのではないかと思う。たとえこの肉体に死が訪れても神との関係は生き続ける、ということなんじゃないかと思う。そして、「生きていてわたしを信じるものは決して死ぬことはない」というのは、そんな神との関係を今もうすでに私たちは持っている、もうすでに神は私たちと共にいて支えているのだということを言っているのではないかと思う。
苦しみや悲しみばかり、思うようにいかないことばかりの人生だ。自分のダメさや無力さを嘆き責めることの多い人生だ。しかし神は、イエスはそんな私たちと共にいて、共に嘆き共に涙し、そして共に笑ってくれているようだ。何があっても決してひとりぼっちにしない、どんな時もいつまでもひとりぼっちにはさせない、そんなお前が大事だから、お前が大切だから、そのお前を愛しているから、そう言ってくれているようだ。私たちの神はそうやって私たちを支えてくれている。そんな神と私たちとの関係は決してなくならない、ずっと生きている。今日の物語を通して福音書はそのことを伝えてくれているのではないかと思う。