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礼拝メッセージより
「勇気」 2014年1月26日
聖書:ヨハネによる福音書7章53節-8章11節
わな
「私たちの人生の最大の罠は、成功でも、名声でも、権力でもなく、自己を拒否することである。」(ヘンリ・ナウエン/カトリックの司祭、元ハーバード大学の教授)
人を一番苦しめるのは、自分で自分を認められないこと、こんな自分は駄目なんだと思い、そんな自分を自分自身で責めることなんじゃないかと思う。人から責められたり非難されたりすることも苦しいけれど、どれだけ責められても自分自身が自分を認められる間はどうにか耐えられると思う。しかし自分で自分を責めるようになると、あるいは自分で自分を断罪するようになると、それはもうもう耐えられないような苦しみとなるだろうと思う。
今日の聖書には姦通の現場で捕らえられた女性が出てくる。ここには女性自身の言葉は一言しかないけれ。どんな気持ちでこの場にいたのだろうか。
それはイエスが神殿の境内で民衆に教えていたときだったと書かれている。律法学者たちとファリサイ派の人々が姦通の現場で捕らえられた女を連れてきた。そしてイエスに向かって、「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」と質問した。律法学者たちはイエスを試して訴える口実を得るために言った、と書かれている。
彼らが言うように、旧約聖書の申命記22章22節以下のところには、「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」と書かれている。姦通の罪を犯した者は石打の刑に処すというのが律法の命じているところである。あなたはどう考えるか、律法学者とファリサイ派の者たちはそうイエスに詰め寄った。
それに対して死刑に処するということに反対するならば律法に逆らい、神に逆らうことになる。神が与えた律法に反対するということは神を冒涜することになる。律法学者たちはイエスがきっと処刑するなというだろう、その時には神を冒涜する者として逆にイエスを訴えようと思っていたのだろう。
反対に処刑すべきだと言ったならば、当時は死刑執行はローマ帝国の政府の権限であって、ローマに反逆することになったそうだ。
つまり処刑するなと言えば、律法に逆らうということでユダヤの最高法院に訴え、処刑しろといえばローマ当局に訴えるという、どっちに答えても訴えることができるという風に律法学者たちはイエスに罠を仕掛けたわけだ。
律法学者たちはイエスにしつこく問い続けたという。さあ、どっちなんだ、早く答えろ、どっちだ、と迫っていたのだろう。最初指で地面に何か書いていたイエスがやっと口を開いた、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そして地面に何か書き続けたという。
罪のない者が最初に石を投げなさいという衝撃的な言葉を聞いて、石を投げる者は誰もいなかった。反対に年長者から順番にそこを去っていって、イエスと捕らえられた女だけが残された。
律法学者やファリサイ派の人たちは、姦通の現場を押さえて、罪を犯しているという確実な証拠をつかんで、さあこいつをどうするんだ、この罪をどうするんだと意気込んでいた。人の罪はよく見えるし、いくらでも気軽に糾弾できる。しかしイエスは突然、じゃああんたの罪はどうなんだい?あんたに罪はないのかい?と言い出したのだ。人間てのは往々にしてこういうことをしがちである。自分のことは棚にあげてまわりの人間に対してはここがおかしい、間違っている、罪だなんてことをけっこう平気で言う。自分が責められない、自分が安全地帯にいるような時には相手をどんどん攻撃する。
警察官がちょっとした犯罪を犯した人間をよってたかって袋だたきにするというようなことが時々問題になるが、自分が優位に立つと何をしでかすか分からないというのは人間誰にもあるようなことだろうと思う。だから相手を糾弾し突き刺すような思いを自分に向けられた途端、罪を持ってない者が最初に投げろと言われて、自分のことに目を向けられた途端、みんなそこにいることが出来なくなってしまったのだろう。ということは、自分が受けるとしたらとてもそこにおれないような強い思いを、みんなこの女の人に向けていたということだ。
しかしイエスの、罪を犯したことのない者がまず石を投げなさい、という言葉によって自分の中にも責められる罪があることを思い出したのだろう。
解放
みんないなくなってからイエスは、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」と言い、女が、「主よ、だれも」と言うと、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言った。
白熱教室というテレビの番組がある。少し前はハーバード大学の先生がリーダーシップについて話をしていた。結構難しい話もしていてよく分からないことも多かったけれどその中で先生が、私は誰かにリーダーシップがあるとかないとかいう言い方はしない、あの時その人はリーダーシップを発揮したとかこの時には発揮しなかったという言い方はするけれど、その人自身にリーダーシップがあるとかないとかいう言い方はしない、そんなことを言っていたように思う。つまり、リーダーシップがある人間とない人間がいるのではなく、誰もがリーダーシップを発揮する時や発揮しない時があるというだけだということだったと思う。
イエスはこの女性に、わたしもあなたを罪に定めない、行きなさい、これからはもう罪を犯してはならない、と言った。
罪を犯したことでというか、罪を見つけられて糾弾されたことでこの女性は罪人とされ処刑されようとしていた。イエスの機転によって処刑は免れたけれど、これからは周りの誰からも罪人として見られながら生きていくしかないような状況だ。この女性としては、罪人としてこれからどんな思いで生きていけばいいのか、という気持ちだったのではないかと思う。
しかしイエスはあなたを罪に定めないと言った。罪を犯したけれども罪人ではないというか、罪人として生きていくな、と言っているような気がする。
リーダーシップがある人やない人がいるのではなくリーダーシップを発揮する時や発揮しない時があるというのと同じように、誰もが罪を犯す時もあり、犯さない時もある、ということなんだろう思う。
イエスは、一つの罪を指摘されたことであなたを全面的に罪人だと定めることはしない、だからあなたも自分を罪人だと定めてはいけない、誰がなんと言おうと自分を罪人として生きてはいけない、そう言われているのではないかと思う。
勇気
一つの失敗、ひとつの間違いで自分で自分を責め、糾弾し、こんな自分ではダメだ、こんな自分は認められない、こんな自分は生きる価値もない、なんてことになりがちだ。
そうやって自分を責めること、自分を認めないこと、自分を拒否すること、それは人間を一番苦しめることではないかと思う。そして最初に言った人のようにそれは人生の罠なのかもしれないと思う。
イエスは、罪を犯したからといって罪人して生きてはいけない、失敗したからといって駄目人間として生きてはいけない、罪を犯しても、失敗しても生きていていい、誰も認めなくても私は認めている、誰がなんと言おうと私はお前が大好きだ、そう言われているように思う。
お前がどれほど自分を責めてしまっても、どれほど落ち込んでも、私はいつもお前のそばにいる、私はお前のことが大切なんだ、そのことを知ってほしい、思い出して欲しい、イエスはそう言われているのではないだろうか。そこに明日を生きる勇気が出てくるのだと思う。