聖書:ヨハネによる福音書7章1-13、37-39節
明けまして
正月も終わってホッとしている。正月のまったりした雰囲気は好きだけど、新年の挨拶が苦手だ。そもそもかしこまった挨拶全般に苦手だけど、新年のあいさつはとりわけ苦手だ。さすがにこの時期になるとそんな挨拶もなくなったと思っていたけれど、昨日「明けましておめでとうございます」と言われてびっくりした。確かに今年になって初めてあった人だったけれど。でもそう言われるとちょっと正月気分に戻ったような不思議な感じだった。
歳をとるごとに正月気分が薄れてきて、そういえば今年は初詣に何万人出かけたというようなニュースを見なかったな。
今日の聖書には仮庵祭というのが出てくる。祭りの時にはユダヤ人たちはエルサレムの神殿に詣でてたようで、初詣みたいだったのかもしれないなと思っている。
殺意
ところでヨハネによる福音書5章を見ると、エルサレムのベトザタの池の周りにいた、38年間も病気で苦しんでいる人を癒やし、床を担いで歩きなさいと言ったことが書かれている。しかしその人はユダヤ人たちから、安息日に床を担ぐことは律法で許されていないと咎められた。律法違反の行為を命じたということでイエスはユダヤ人たちから命を狙われるようになった。
仮庵祭
その後、イエスはガリラヤを巡っていたが仮庵祭が近づいてきた。
過越の祭、七週の祭と並ぶ3大祭の一つ。レビ記23章34節以下に規定がある。第七の月の一五日から一週間の祭だったようだ。今の暦では9月から10月位になるそうだ。レビ記23:43には「これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である。」と書かれている。かつて先祖たちがエジプトから脱出する時に、荒れ野で40年間仮庵(仮小屋)で過ごしたことを忘れないために、1周間は仮庵を建ててそこに住んだそうだ。しかしこの祭りの最中は、神殿の庭ではかがり火が焚かれて、レビ人が楽器を演奏して、祭司たちや長老を始め、そこに集まっている誰もが、一晩中踊ったり歌ったりという、喜びの祭りだったそうだ。
無理解
そしてこの祭の時には成人男性はエルサレムの神殿へ上る義務があったそうだ。そういうこともあったのだろう、イエスの兄弟たちがイエスに向かって、ユダヤに行って自分を世にはっきり示しなさい、と言ったなんてことが書かれている。ヨハネによる福音書には「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」と書かれている。律法に反するようなことばかりしていることに腹を立てていたのだろうか。あるいはいつも偉そうな話をしていることに腹を立てていたのだろうか。田舎でこそこそしてないで、都会に行って大勢の人の前でも偉そうなこと言ってみろ、ということのようだ。イエスは自分の時は来ていないから祭りには行かないと言いつつ、兄弟たちが祭りに登って行くと自分も隠れるようにして上っていったと書いてある。
水
祭りの間、エルサレムの神殿では毎日焼き尽くす献げ物を献げていたが、イエスの時代には、祭りの期間中、市内のシロアムの池から黄金の器で水を汲んできて、朝晩二回行われる犠牲の時に供え物とともに祭壇に水を注ぐ行事が行われていたそうだ。
祭壇の側らに立っていた大祭司は、この水を受け取り、水の入った容器を西側、つまり雨雲がやって来る方向に上げ、ワインの入った容器を東側に掲げて、祭壇の上に一滴一滴たらしていき、新しい年も雨に恵まれ、豊かな産物を得ることができるように祈っていたそうだ。
この水を注ぐ儀式のもとは、出エジプト17章にある、荒野を旅する民が水がなくて死んでしまうと文句を言ったところ、主がモーセに杖で岩を打てと伝え、岩から水を出してもらった、という物語から来ているそうだ。
そしてそういう儀式を見てイエスは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる。」と大声で言った、と書いてある。
隠れるようにして祭りにエルサレムに来た割にはずいぶん大胆な行動だな。そのすぐ前の7章32節以下のところでは、祭司長たちやファリサイ派の人々がイエスを捕らえるために下役たちを遣わしているとあるので、すでに自分がエルサレムに来ていることがバレていることは分かってはいたのだろうけれど。それにしても大声で言ったというのはすごいな。
イエスは人々の渇きを感じ取っていたんだろうなと思う。その渇きを癒やしたい、渇いた心を潤したい、そんな気持ちを抑えきれなくて言ってしまったという感じがする。
この福音書では霊について言われたと説明している。ちなみに霊の前後に""が付いているが、これは一般的な霊ではなく、神の霊、聖霊を意味しているということで付いているそうだ。
聖霊が川となって流れ出るということか。それってどういうことなんだろうか。余計に分からないなと思う。
厄除け?
小学生くらいまでは近くの神社に初詣に行っていたけれど、そしてそこでみんなと同じようにお祈りしていたとけれど、何をどう祈っていいのか分からないので、お祈りの格好だけしていた、という記憶がある。どこに向かって祈っているのか、そもそも何を祈ればいいのかもよく分からなかった。勉強がよく出来るように位は思っていたけれど、3秒位で終わってしまっていた。
最近ラジオをよく聞いている。それも民放が多くてよくコマーシャルが入る。テレビでもそうかもしれないけれど、年末には神社や寺のコマーシャルがよくある。初詣に来てくださいということなんだろうと思うけれど、よく「厄除けに○○神社へお詣りください」というような宣伝が多かった。初詣に行く人がみんな厄除けのために行くのかどうか知らないけれど、神社側としては厄除けがメインなのかなと思って聞いていた。
今日の聖書を見ながら、イエスの言う事は厄除けというのとはずいぶん違うというか全く逆向きなことを言っていると思った。厄除けというのは厄を除けることを願う、災難が降ってこないように願う、ということだろう。つまり外から自分のところへおかしなものがやってこないことを願うことなんだろうと思う。初詣では家内安全や無病息災を願うということも聞くけれど、それも厄除けと似ている気がする。つまり外から自分たちの安全を脅かすものがやってこないように、病気が災難がやってこないように、つまり外からの影響を遮断したいという願いなんだろうと、自分の初詣の経験からはそう思う。
飲みなさい
しかしイエスが言うには、わたしのところに来て飲みなさい、と言うのだ。外からの影響を遮断するのではなくて、逆に扉を開いて外から受け取るように、今日の箇所ではイエスから飲むようにと言われている。イエスの与える水を飲む、それは聖霊だと書いてあるけれど、とにかくイエスの与えるもの、イエスの言葉、またイエスの思い、愛する思い、大切にする思い、イエスはそれを受け取りなさいと言われている。
イエスは「渇いている人はだれでも、わたしのところへ来て飲みなさい。」と言った。渇きを潤すのは結局は愛なんじゃないかと思う。愛されているという思いが足りないこと、それが渇きとなっているんじゃないかと思う。
人間の心の一番奥まで届くのはやっぱり愛んだろうなと思う。一番奥の空洞を埋めることができるのは愛なんだろうと思う。この自分を愛されること、肯定されることでその空洞が埋められ、そこが埋められた空洞が人生の基礎となるんだろうなと思う。その基礎があることで、苦難や災難にも立ち向かう力が出てくるんだろうと思う。
そのためにイエスから愛を受ける、イエスに愛されていることを知る、信じる、それがイエスから飲むことなんじゃないかと思う。