前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「命のパン」 2014年1月12日
聖書:ヨハネによる福音書6章1-15節
奇跡?
イエスが男だけで五千人の人にパンと魚を食べさせた、という話しは四つの福音書全てに書かれている。それだけよく知られた有名な話しだったのだろう。
昔見た映画では、イエスが祈っていると魚がどんどん沸き上がるように増えていったなんてのがあった。福音書に書かれている文字通りのことが起こったのかどうか。昔は聖書に書かれていることをそのまま信じることこそが信仰だと思っていて、理解できないけれど信じようというか、とにかく信じなきゃいけないと思っていた。
ある時誰かの説教で、少年が自分の持っていたものを捧げたことに感銘を受けて、みんなも自分の持っていた物を差し出したのでみんなが満腹になったんじゃないか、と言っていた、なるほどそうかもしれないと思うようになった。
今回もインターネットでいろんな人の説教を読んだ。理解できないけれど不思議なことが起こったのだ、質量保存の法則というような自然の法則に反するけれどイエスだからできたんだ、というような説教も多かった。確かにそう信じることで希望を持つこともできるのかもしれないけれど、じゃあ信じて祈れば自然の法則に反するようなことをしたのか、できるのかというとやっぱりそうはならないと思う。
ではなぜこんな奇跡物語が聖書に書かれているかというと、この物語を通して言いたいこと、伝えたいことがあるということだろうと思う。
命のパン
6章11節に「さて、イエスはパンと取り、感謝の祈りを唱えてから」そのパンを分け与えたと書かれている。これは主の晩餐の有り様にそっくりで、その後の「魚もおなじようにして」というのも、主の晩餐の時の、盃もおなじようにして、というのとよく似ている。
要するに、この物語は主の晩餐においてイエスの体であるパンを食べることですべての人が満ち足りる、イエスこそがそんな命のパンなのだたということを伝えているのだと思う。
そしてその説明となるような話しが6章22節以下に書かれている。そこではイエスは自分こそが命のパンであるという話をしている。
6章26-27節「イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
6章32-35節「すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
6章51節「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
結局はこのこと、つまりイエスは天からのまことのパン、神のパン、命のパンであって、イエスのもとに来る者は決して飢えることがなく、イエスを信じるものは決して渇くことがない、ということを伝えたい、そのためにこのイエスが5000人を満腹にさせたという物語が福音書に載せられているということなんだろう。
どこで?
この物語でイエスがフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と問いかけている。これをこの物語を読む私たちに対する福音書からの問いかけのような気がする。群衆を満ちたらせる命のパンは一体どこにあるのか、といったところだろうか。
フィリポはこれに対して、200デナリ分のパンでも足りないでしょう、と答えた。1デナリは一日分の給料ということなので1日1万円とすると200万円ということになる。男が五千人ということで女性や子どもも同じくらいいたとして合わせて1万人とすると、一人あたり200円ということになる。五千人の男が他に3人ずつ家族を連れていたとしたら2万人となり一人あたり100円。少しずつは食べることができそうだけど。200万円のパンでも足りないでしょうと言うのはそんなお金はないということを言っているのかとずっと思っていた。でもイエスの質問はどこでパンを買えばよいか、ということだった。とするとフィリポの答えは、それだけたくさんのパンを売っているところなんてないですよということかなと思う。
そこへアンデレが大麦のパン五つと魚二匹を持っている少年がいる、と口を挟んだ。みんなの分のパンを買えるところもない、現実はこんなものしかないんだ、と言ってきた。
現代は物質は豊かになってきた。日本でも戦後の経済成長によってものは増えてきた。誰もが多くのものを持つようになった。確かに生活は便利になってきた。でも満たされない思いを多くの人が持っているように思う。日本の子どもたちよりも貧しいと言われる国の子どもたちの方がいい顔をしているなんてことも聞く。
そんな私たちを満ちたらせるものはどこにあるのか。最近でも成長戦略がどうだこうだということを聞く。成長して成長して、一体どこまで成長したら満足できるのだろうか、どれだけのものを持てば満足できるのだろうか。まだまだ足りない、もっともっとと探しまわっているかのようだ。
イエスこそが飢えている私たちを満ちたらせる命のパンなのだ、と福音書は告げる。イエスはそこに集まってくるものすべてを満腹させるそんな命のパンなのだ、と告げる。イエスのその体を食べることで、つまりそれはイエスの言葉を聞くこと、イエスの思いを受け止めること、実はそこに私たちを満ちたらせるものがあるということなんだと思う。
お前を愛している、お前が大事だ、お前はお前でいいんだ、そんなイエスの声をしっかり聞く、そこに喜びと安心感が生まれる。
昨日ニュースを見ていたら、何かのシンポジウムのことをやっていた。そこに出ていた一人の人が自分の体験を話していた。その人は姉と一緒に自転車に乗っている時に事故にあって姉が死んでしまい、それ以来髪の毛をむしりとったり自分の体を傷つけたりするようになってしまったそうだ。まわりの人が慰めようとして、お姉ちゃんがあなたの身代わりになってくれた、というようなことをいう人もいたけれど余計に苦しめられたと言っていた。自分のせいだと思って自分を責めてしまうことで苦しんでいた。ある時あなたはあなたのままでいい、と言われてことで立ち直れた、というようなことを言っていた。
自分を責めるということは自分を一番苦しめることじゃないかと思う。自分を責めるばかりだと生きていけないんじゃないかと思う。
イエスは私たちを肯定してくれているんだと思う。お前はお前でいい、そのお前を愛している、そのままのお前が大好きだ、そのままのお前が大事なのだ、そう言われているのだと思う。そうやって徹底的に肯定してくれているのだと思う。私たちはそうやって根底から支えられ肯定してもらうことで生きていけるのだと思う。そうやって私たちを生かす、だからこそイエスは命のパンなのだ。
そうやって私たちを生かす、このイエスの言葉をしっかりと聞いていきたいと思う。