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礼拝メッセージより
「言」 2013年12月22日
聖書:ヨハネによる福音書1章1-5、14節
言
言霊という言葉を聞く。言葉には霊が宿っているというような意味なんだろうか。
創世記の最初を見ると、神が光りあれと言われることで光ができ、水の中に大空あれ、水と水をわけよと言われてそのようななったなんてことが書かれている。
人間だって言葉でも、時には人を殺すようなこともあり、逆に誰かを勇気づけ力づけ慰めることもある。人の言葉だってそうなのだが、神の言葉とは天地を造るような力があるのだと言いたいようだ。
ヨハネによる福音書では冒頭に「言」という言葉が出てくる。この言とはなんなのか。ここを読むとその言とはイエス・キリストのことを指しているようだ。
その言は世のはじめから天地がつくられる前からあった、神と共にあった、神であった、そして世界は言によって、つまりキリストによってできたと告げている。
すべてのものはキリストによってできたということは、この世界はキリストの世界、世界はキリストのもの、神のものということになる。私たち一人ひとりもキリストによって造られたということになる。
電気製品を買うとメーカーの名前が書いてある。そして故障するとそのメーカーに直してもらう。その電気製品はいつまでもそのメーカーとのつながりがある。もッとも最近は何年か以上になると部品がないとか言われて修理できないと言われることもあるみたいだが。
キリストと私たちとの関係はメーカーがいつまでも責任を持つような関係に似ていると思う。造った側と作られた側というような、いつまでもなくならない関係があるのだと思う。
私たちがどこにいても、どんな時も全部神との関係の中にあるということだ。神から離れて、神との関係のない時を過ごす、神との関係のない所にいる、ということはないということだ。
光
そしてこの言の内に命があった、そしてこの命は人間を照らす光である、その光は暗闇の中で輝いていると告げる。
昔アメリカに行っていた人から真っ暗闇を経験したという話しを聞いたことがある。ある時鍾乳洞に行った時に中で電灯を消してくれたそうで、その時には全くの暗闇で全然光が見えなかったと言っていた。
そんな真っ暗闇を経験することはあまりないし、物理的な暗闇であれば火を灯せばすぐに真っ暗闇ではなくなる。
しかし人生の暗闇に遭遇するとどうしたらいいのだろうか。全く動けなくなってしまう。どうしていいのか分からない。人生の真っ暗闇に迷い込んだ時に、その暗闇を消し去る光はどこにあるのか。
聖書はイエス・キリストこそ、その光なのだと告げている。イエスは私たちの人生の暗闇の中で燦然と輝いている。イエスはまたすべての人を照らす光である。
その光とは何なのだろうか。人生を照らす光とは何なのか。そもそも人生の暗闇とはなんなのだろうか。それは自分が自分でいいと思えないこと、こんな自分では駄目なのだと思うこと、こんな自分は誰からも認められないと思う、そして誰からも見捨てられて一人ぼっちなのだと思うことなのではないかと思う。世界でひとりぼっち、宇宙でひとりぼっち、それこそが暗闇なのではないかと思う。
しかしそんな暗闇の中にいる私たちに光がさした、それがイエス・キリストなのだ。それは私たちを決してひとりぼっちにはしないということだ。たとえ誰からも認められなくなったとしても、自分のことを誰にも分かってもらえなくても、そんなときでも一緒にいるということなんだろうと思う。決して一人ぼっちにはさせない、いつも共にいる、それが私たちにとっての光なのではないかと思う。ひとりぼっちになってしまい、自分のせいだ、自分が悪いのだ、どうしてこんなに駄目なのかと自分で自分を責めるようなこともある。そんな真っ暗闇にも光がやってきた、と聖書は告げるのだ。私たちを決して見捨てない、いつまでもどこにいても共にいる、そんなイエス・キリストがやってきたというのだ。
そんな言が、イエス・キリストが肉体となって私たち人間の世界に来た、という。神が人間として生きたというのだ。それがイエス・キリストであるとこの福音書は告げるのだ。
イエス・キリスト
私たちはそのイエス・キリストに、肉体を持ったイエス・キリストに会うことは出来ない。見ることはできない。しかし今私たちはイエスと言として接している。聖書の言葉を通して、イエスの言と接している。そしてこのイエスの言はそのままイエス自身でもあるように思う。
言葉に霊が宿ったり、言葉自体に力があるのかどうかよく分からないけれど、言葉の向こうには、その言葉を発した人の思いがあり、その思いを感じることができる。言葉を通して、その人の思いを感じるからこそ、その言葉によって力づけられたり励まされたり癒やされたりする。
聖書は神が私たちを愛していると言う。けれども直接神の手の中に抱きしめられるという形で、肌を通してその愛を直接感じることはできない。けれども、イエスを通して、イエスの言葉を通してそのことを知らされている。
つまり、イエスの言葉を聞くことで私たちは神の愛を感じることができる。イエスの言葉を聞くこと、それはほとんどイエスと会っているようなものだ。
私たちは聖書を通してイエスの言葉に出会う、それはまさにイエスと会っているようなものだ。その言葉はイエスそのものとも言えるようなものだ。
だからイエスの言葉を聞くときは、それはイエスのすぐそばにいるようなものだ。イエスの言葉を聞くということは、イエスと面と向かって話しをしているようなものだ。
聖書はただの書物である、といえばその通りであるが、そこでイエスと会うこともできる、そんな書物でもある。誰かが聖書は神からのラブレターだ、なんてくさいことを言っていたがしかしその通りだと思う。いくらいっぱいラブレターを貰っても、それを相手からの言葉として読まなければ、そして相手の思いを受け止めなければ嬉しくもなんともない。
しかしラブレターから相手の愛を感じて受け止める時には、私たちの心は震え暖かくなる。どんなに相手が遠くにいたとしても、距離なんてのはほとんど関係なくなる。
聖書を枕にして寝てみても、どこかに飾っていても、ほとんどなんの意味もないだろう。この中の言葉を通して私たちは神に出会い、イエスに出会い、そこから喜びや平安や希望、そして愛を受けることが出来るのだろう。イエスはそんな言として私たちの心の中に入ってこられるのだと思う。あんたが大事なんだ、あんたのことが大好きだ、あんたを愛している、その言葉を通してイエスの思いは私たちの心の中に入っている。その言葉を通してイエス・キリストは私たちを力づけ支えてくれるのだ。
そんなイエスの誕生をお祝いするのがクリスマスだ。だからこそクリスマスは喜びなのだ。
「クリスマスのメッセージ、
それは、私たちは決してひとりぼっちではないということ。」
テイラー・コールドウェル