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礼拝メッセージより
「希望」 2013年12月15日
聖書:ヨハネによる福音書20章19-29節
絶望
イエスが処刑された次の日曜日、その日弟子たちはユダヤ人を恐れて家の戸には鍵をかけていたという。師匠であるイエスの処刑に弟子たちは打ちのめされていたようだ。次は自分たちにも同じような運命が待ち構えているかもしれないという恐怖におののいていたのかもしれない。
恐怖だけではなく、いろんなことに失望していたに違いない。彼らは3年間イエスに従ってきた。イエスに希望を託し、自分の仕事を捨て、それぞれの人生を掛けてきた。しかしそんな命を掛けて従っていたはずのイエスは十字架で処刑され、しかも自分達は師匠に最後までついて行くことも出来ずに見捨ててしまったのだ。
どこまでもイエスについていけたならば、そこでどうなろうと自分自身納得もできたかもしれない。しかしそれもできなかった。かつての生活を捨ててすべてをイエスにかけて従っていったはずなのに、そのイエスをも見捨ててしまったのだ。自分たちの生きる道を見失ってしまったであろうし、また自分たちの不甲斐なさも思い知らされていたのではないだろうか。
弟子たちはそんな恐怖と絶望と挫折に打ちのめされていたのだろう。
しかしそんな中にイエスは現れた。復活のイエスが現れた。打ちのめされ、打ちひしがれている弟子たちの中にイエスが入って来たというのだ。そして、あなたがたに平和があるように、と言う。
家の戸に鍵をかけ、何者をも寄せつけないようにしていた、そして彼らの心の中も同じような状態だったのだろう。誰の励ましも慰めも聞こえない、聞けない状態だったのではないか。
そんな中にイエスは現れた。イエスは弟子たちを責めにきたのでもなく、叱りにきたのでもなく、裁きに来たのでもなかった。平和を、平安を与えるために来たのだ。そしてそのイエスに会うことで弟子たちは喜んだ。
疑い
12弟子のひとり、ディディモと呼ばれるトマスはその時そこにいなかった。トマスは最初の日にイエスが弟子たちの所に来られた時には一緒にいなかった。そして他の弟子たちからイエスを見た、と聞いても信じなかった。釘跡に指を入れて、わき腹に手を入れてみないと信じないと言ったというのだ。
トマスは疑い深いのだろうか。よくそんな言われ方をするが。そうかもしれないがとても堅実なのではないかという気がする。私たちは周りの声にすぐに踊らされてしまうことが多いがトマスは自分でそれを確かめないと信じないと言う。
そのトマスが一緒にいる時にイエスはまた弟子達のところへ来られた。そしてトマスに、あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じるものになりなさい、と言う。トマスは、わたしの主、わたしの神よ、という。イエスは最初そこにいなかったトマスのためにまた現れたのだろう。十字架に付けられた姿のイエスが、傷を負った姿のイエスがトマスにも現れた。イエスは最初に弟子達に現れた時にも手とわき腹とを見せたという。トマスは指を釘跡に入れないと、手をわき腹に入れないと信じないと言っていた言葉に反して、そんなことをしたとは書かれていない。イエスと会ったことで、そんなことはどうでもよくなったかのようだ。
トマスは11章を見るとイエスが危険なユダヤへ行こうとした時に、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言っている。彼はイエスのために死ぬ覚悟を持っていたようだ。
しかし現実にイエスの身に危険が迫ってくると彼はイエスのもとにとどまることが出来なかった。そしてそれはトマスにとってもつらい現実だったのではないか。かつて自分はイエスと一緒に死ぬこともいとわないという熱意を持っていた。死ぬことも出来るという自信もあったのかもしれない。しかしそうではなかった。偉そうなことは言ったけれども出来なかったという自分を、自分の無力さをだらしなさをトマスはこの時思い知らされていたのではないか。
トマスにとってもイエスが復活されたと知らせは喜ばしい出来事だったのではないかと思う。それが本当ならばどれほどうれしいことかという思いはあったのではないか。だからこそ余計にそれが本当なのかどうかを確かめようとしているのだと思う。人の話しを下手に信じれない、下手に信じて実は間違いでしたと言うようなことになったときに余計に落胆するようなことは何としても避けたかったのではないか。
本当にイエスが復活したならそこでもう一度やりなおすことが出来るかもしれない、そこにもう一度人生を掛けることができるかもしれない、そして今はそれが出来るかどうかの瀬戸際なのだ、だから簡単に人の話しだけで信じることは出来ない、自分でしっかりと確かめないではいられない、そんな心境だったのではないだろうか。だから敢えて強い調子で、釘跡に指を入れ、わき腹に手を入れないと信じない、なんてことを言ったのではないかと思う。ただ単に疑い深いとか不信仰だからというわけではないような気がする。それだけトマスにとっては大切な重大な問題であった、いい加減では済まされない問題であったということだったのだろう。だからトマスが復活のイエスと出会って、わたしの主、私の神よ、と言った言葉もとても真剣な言葉だったのではないか。そしてまたそれはきっと喜びの言葉だったのではないか。復活のイエスと出会ったという喜びは誰にも負けない位大きかったのだろうと思う。
見ないで
復活とは一体何なのだろう。イエスはどんな姿で復活したのだろう。よくわからない。どこにそんな証拠があるのかという気もするが、科学的に証明できるようなものでもないようだ。
しかしたとえどんな証拠があったとしても、それが自分に関係のない出来事であったならばそれは自分にとっては何の意味もない。復活のイエスに出会わなければ、復活しようがどうしようが私たちにとっては大した意味はない。
弟子たちは復活のイエスに出会った、と聖書は告げる。イエスが逮捕され十字架につけられようとしたとき、12弟子たちはみんな逃げてしまった。そして周りの者を恐れて家に鍵をかけて隠れていた。その弟子たちは50日後には堂々とイエスを伝えるようになった。イエスがキリストであること、自分達はその弟子であることをみんなの前で話すようになった。彼らにいったい何が起こったのだろうか。
弟子たちが復活のイエスと出会ったからだと聖書は告げる。どんな形だったのかはよくわからない。夢や幻のようなものだったのかもしれない。けれども確かに出会ったのだ。弟子たちは復活のイエスと心の中でしっかりと出会ったのだろう。目に見えるような形での出会いだったのかどうかはわからないが、弟子たちは確かにイエスに出会った。失意のどん底にあった弟子たちは元気になっていった。そんな出会いがあったのだ。
人生をかけて従っていた師匠がこともあろうに犯罪人として十字架で処刑されて死んでしまい、お先真っ暗になり、家に閉じこもるしかなかった、そんな弟子たちを立ち上がらせる、そんな弟子たちに力を与える、そんな出会いがあったのだ。
それは人間には全く希望のないと思えるところ、そこをも神は支えているということだ。父なる神がイエスを復活させ、私たちと出会わせて下さる、そこに私たちの希望がある。
真っ暗闇の中に光る一つの明かり、それがイエスだった。その光の誕生がクリスマスだ。
すべての希望が消えてなくなった真っ暗闇のような状態にいる時、しかし神はそこをも支配されている、そこにもイエスはいて下さる。復活のイエスはそこにもいてくれている。今日の箇所はそのことを教えてくれているのだと思う。
私たちが絶望する時にも、真っ暗闇で進む道が見えない時にも、ただ隠れてうずくまるしかない時にも、そこにもイエスが来てくれている、鍵をかけた私たちの心のなかにも来てくれている、そんな時にも共にいてくれている、それが私たちの希望である。そのイエスの誕生を喜ぶのがクリスマスだ。