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礼拝メッセージより
「かかわりを持つために」 2013年12月8日
聖書:ヨハネによる福音書13章1-11節
説明
ヨハネによる福音書ってなんだか説明が多いような気がする。それも目に見えない心の中の動きみたいなことまでも見てきたように説明している。
今日の13章でも、1節に「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と書いている。こんなイエスの心の内側の思いが分かるのか、なんて思ってしまう。2節も3節も同じように外からは見えない内面の説明をしているけれど、確かにそうかもしれないけれど、本当にそんなこと分かるのかと思う。
足だけでなく
パレスチナの風習では、人々は祝宴に出かける前に沐浴をしたそうだ。しかし招待された人の家についたときには足を洗わないといけなかった。というのも、当時はもちろん道を舗装しているわけでもなくて埃っぽかったし、靴も今のような立派なものではなく皮を靴底にして、それに紐をつけただけのようなものだった。だから沐浴をしてきれいにしてから出かけても、外を歩くとすぐに足は汚れてしまったようだ。だから家についたときには足を洗わないといけなかった。そしてこの足を洗うというのは奴隷の仕事だった。
拒否
その奴隷の仕事をイエスが始めたというわけだ。ペトロはどうしてイエスがそんなことを始めたのかまるで分からなかったようだ。あなたが私の足を洗うのですか、と聞いている。イエスは、私のしていることは今は分からないが後で分かるようになる、なんて答えている。それでもペトロはそんなことやめてくれ、と言った。理解できないままに足を洗われる、しかも自分の先生が奴隷のように自分の足を洗うなんてのは抵抗があったのだろう。
しかしイエスは、もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたとわたしと何の関わりもないことになる、なんてことを言った。そんなに言うなら手も頭も、という気持ちも分かる気がする。
関係ない?
イエスがペトロの足を洗うことで初めて二人のかかわりができるのだ、とイエスは言っている。イエスは足を洗うことでペトロや弟子たちとのかかわりを持つというのだ。
足は一番汚れやすい、一番汚れているところ、そこを綺麗にするという仕方でイエスは周りのものとのかかわりを持とうとしているということなんだろうと思う。
私たちも同じだろう。足を洗って貰うこと、自分の汚れを、自分の一番醜いところをイエスに洗ってもらうことで、私たちもイエスとの関わりを持つことができるのだろう。
誰にも知られたくないような、決して誰にも話せないような自分の一番醜い過去、醜い思い、握りしめてなかなか離せないプライド、そんなものをイエスに洗って貰うこと、そんないろんな思いをイエスにぶちまけ、洗ってもらうことで、私たちもイエスとの関わりを持つことができる。
つまり私たちとイエスとのかかわりは、私たちが立派になってイエスに従うことで持つというようなかかわりではないということなのだろう。
礼拝を休まないで、献金をいっぱいして、いろんな奉仕を誰よりもして、そうすることで私たちがイエスとのかかわりを持てるというのではない。たとえそうしていたとしても、イエスに足を洗ってもらわなければ、つまりイエスに自分の醜いところをさらけ出さなければ、洗ってもらわないといけないようなところはありません、と言っているならば、イエスとは何のかかわりもなくなるということなのだ。
それは自分が醜い汚れた人間であること、赦されなければいけない人間であることを認めること、そしてそんな自分を洗ってくださいとイエスにさらけ出す、そのことで初めてイエスとのかかわりが生まれてくるということなんだろうと思う。
イエスは今日の話に続いて、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない、と言っている。それはお互いに汚い部分、醜い部分があるということを認めていくこと、そしてそんな汚い醜い部分を聞き合っていくということでもあるのだろうと思う。
教会でもというか、教会だからこそついついいいかっこをしてしまう面がある。神を信じているんだからそんなことを言うもんじゃありませんというようなことになりがちだ。何でも分かったような、どんなことでも立派に耐え忍んでますというような、どんな人でも受け入れてますというような、もう洗ってもらわないといけないような汚い人間ではありません、というようになりがちだ。
本当は苦しくて仕方ないのに、これも神さまからの試練ですからと平気な顔したり、感謝ですなんて言ってみたりということがある。あなたの信仰は立派ですね、なんて言われても余計苦しくなるばかりだ。試練だろうがなんだろうが苦しいのは苦しいのだ。
でもその苦しさを聞いてもらい、受け止めて貰うことで、その苦しみはきっと楽になる。そんな苦しさを分かろうとしないで、何でそんなことを言うのか、そんなこと言うものではありませんとか、人間なんてそんなものだ、みんなそんなものだよ、なんて話しになることが結構多い。
一番汚い思いや考え、一番苦しい気持ち、一番大変な状況、それを私に見せてほしい、話して欲しい、聞かせて欲しい、私もあなたと一緒に泣きたい、一緒にうめきたい、それでこそあなたとのかかわりを持てるのだ、イエスは私たちにもそう言っておられるような気がする。