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礼拝メッセージより
「良い羊飼い」 2013年12月1日
聖書:ヨハネによる福音書10章7-18節
羊
ユダヤの主要地帯は中部の高原地帯であった。その土地の大部分が荒れていて石が多かった。それでユダヤは農業国というよりも牧畜の国であった。だからユダヤの高原地帯で最も普通の人間は羊飼いだった。草が少なかったために羊を遠くまで連れて行かなければならなかった。狭い高地で両側が断崖のようになっていて、そこから岩のごつごつした砂漠が続いているようなところがあって、羊がそこに迷い込んで行方不明になることがあった。
羊飼いの仕事は、野生の動物、特に狼から群れを守ること、あるいは羊を盗もうとする盗人や強盗から羊を守るという危険なものだった。
パレスチナの羊飼いたちは、自分の羊をわが子のように大切にして、一匹一匹名前をつけ、それぞれに羊の持つ特徴や性格を熟知していたそうだ。今日の聖書の少し前の10:3に「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」とあるが、羊には名前が付いていたらしい。
羊と羊飼いはつねに寝起きをともにして、馴らされた羊は名前を呼ぶと羊飼いの所へ近づいてきた。普通、羊が外に出て迷わないように、羊が飛び越すことが出来ない高さに石を積んで、大きな囲いをつくった。
羊飼いの身支度は簡単なものだった。羊飼いはらくだの皮で作ったずだ袋をさげていて、その中に食料を入れていた。その中身は、パンと少しのオリーブやチーズなどだった。それに石投げ器を持っていた。パレスチナでは番犬がいなかった。そこで、群れから離れようとしている羊を呼び戻したい時には、迷い出た羊の鼻先に石を投げて呼び戻した。
また杖を持っていた。杖は野獣や盗賊の襲撃に対して群れと自分を守る武器だった。それに、先の曲がったさおを持っていた。そのさおで迷い出ようとする羊をひきもどした。
パレスチナでは羊は大部分が羊毛を取る目的で飼育された。だから羊と羊飼いは何年も一緒に暮らすということもめずらしくなかった。だから羊に名前をつけ、その名前を呼ぶと羊も羊飼いの所へやってくるようにもなっていた。そして見知らぬ人が呼んでもそこへ行くようなこともなかった。
羊の門
羊は夜は羊小屋の中に入れられた。その小屋には二種類あった。ひとつは、村全体が共同でもっているもので、村中の羊が夜になると入れられた。そのような小屋には用心のために頑丈な扉がつけらえて、門番だけが鍵を所持していた。10:1-3「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」とイエスが言っている通りだ。
そして暖かい季節になると、羊は高原に放牧されて、夜村まで帰る必要がないときには、羊の群れは丘の中腹の小屋に集められた。小屋というよりも石を積んで囲いを作っただけのものだった。その囲いには扉もなくて、羊飼い自身が夜になるとその入り口に寝そべっていた。つまり羊飼い自身が羊の門となっていた。7節の「わたしは羊の門である」とあるが、羊飼いは文字通り羊の門となっていたそうだ。
良い羊飼い
イエスは、私たちがそんな羊であり自分は羊飼いである、良い羊飼いであるという。良い羊飼いは命がけで羊を守り、命の危険を顧みないで迷い出た羊を探しまわる。私たちはそんな風にして守られている者なのだという。一人で生きていけない、羊飼いの声を聞いて従うことでやっと生きていく、それが私たち人間の姿なのだとイエスは言う。そしてイエスはそんな羊たちを守り導く良い羊飼いであるのだ。
羊飼いがただの雇い人であれば、自分の身に危険が迫ってくると逃げ出してしまう。しかし良い羊飼いは反対に羊のためにいのちをかける。イエスは羊のために自分の命を捨てる、そんな良い羊飼いだ、と言うのだ。長年寝起きを共にする、そしてそれぞれに名前も付けている、それはほとんど家族のようなものなのだろう。よい羊飼いは羊のことを家族のように大事に大事に思っている。そして羊も羊飼いのことをよく知っていると言っている。
それは父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである、とイエスは言う。父なる神が子なるキリストを知っていると同じように、イエスは私たちのことをよく知っているという。
父なる神とキリストとはどういう関係なのか、私たちには分かりにくい面がある。一つの神なのにどうして父と子となっているのか。それは一つの神の別々の顔と言ってもいいようなことなのではないかと思う。一人の人に肩書きがいくつかあるような、中身は一人だけど名前を複数持っているようなものかなと思う。あるいは一本の木に幹と枝があるような、そんな決して別々ではない、別々にはなりえない、父なる神とキリストとはそんな関係のようだ。
そして羊飼いと羊とは、つまりキリストと私たちとはそれと同じように、別々にはありえないそんな関係なのだ、とイエスは言うのだ。それほどにイエスは羊のことを、私たちのことを大切に、大事に思っているということだ。自分の家族のように、あるいはそれ以上に自分自身でもあるかのような関係なのだろう。だからこそ羊飼いであるイエスは、私たち羊のために命を捨てたのだ。
イエスが私たちを呼んでいる。私があなたの羊飼いなのだ。私の声をしっかりと聞きなさい。私の声を聞いて、私についてきなさい。そこがあなたたちのいるべき場所なのだ、あなたたちが本当に安心して憩えるところはここなのだ、だから私についてきなさい。イエスはそう私たちに語りかけているようだ。
しかし私たちにはいろんな声が聞こえてくる。こっちに来なさい、こっちの方がいい場所だ、そんな声が聞こえてくる。
ただの雇い人である羊飼いは、自分がお金を儲けるために、あるいは自分が有名になり、自分が名誉を得るために羊の先頭に立って歩く。しかし雇い人はいざというときに羊を放っておいて逃げ出すのだ。しかし良い羊飼いは羊のために命を捨てる。イエスは十字架で命を捨てた、そんな羊飼いなのだ。
ルカによる福音書15章に見失った羊の話しが出てくる。
15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
私たちはしょっちゅうどこかに迷い出て、いなくなってしまう羊なのだろう。迷い出て、気が付くとひとりぼっちになってしまって、どっちにいけばいいのか、何をすればいいのかもわからなくなってしまい、ただそこにうずくまるしかなくなる、そんな羊なのだろう。しかしイエスはそんな迷い出た一匹の羊を必死で探し回る、そんな良い羊飼いなのだ。
迷い出ている私たちがすべきこと、それはイエスの声をしっかりと聞くことだ。私たちの名前を呼び続けて探し回っているイエスの声を聞いていくことだ。しっかりと聞き耳を立てて聞くことだ。イエスは私たちに一所懸命呼びかけているのではないか。あなたを迎えにきたよ、あなたは私のもとで、私と一緒に生きるのだ、ひとりぼっちになってはいけない、これからはずっと私と一緒にいるのだ、イエスはそう言われているようだ。