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礼拝メッセージより
「勝利を与えられた者」 2013年11月24日
聖書:ゼカリヤ書9章9-10節
ゼカリヤ書
ゼカリヤ書なんてほとんど読んだことないけれど、、、。
ものの本によるとゼカリヤ書は1章から8章までの第一部と、9章から14章までの第二部になっている。第一部ではバビロン捕囚から帰ってきた民がエルサレムの神殿を再建するという時代のことがらが書かれている。神殿の再建とともに、バビロンに補修されたヨヤキン王の孫であり、総督であったゼルバベルを王に擁立しようとするが、これは当時支配されていたペルシャから独立を図るものと見なされてゼルバベルは総督を失脚させられ、王制を復活する企みは失敗する。ペルシャは、征服した国の宗教を尊重し積極的に援助したが、政治活動は決して許さなかった。そんなこともあり、何度も挫折しかけながらも神殿を再建する。
ユダヤ人たちは神殿を中心として、その後はペルシャの忠実な属州の一員として、ペルシャ帝国が繁栄している期間は政治的に平和な時代を過ごしたようだ。しかしゼカリヤ書8章にはやがて新しい時がやってくるという主の言葉が書かれている。
『8:1 万軍の主の言葉が臨んだ。 8:2 「万軍の主はこう言われる。わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。激しい憤りをもって熱情を注ぐ。 8:3 主はこう言われる。わたしは再びシオンに来て/エルサレムの真ん中に住まう。エルサレムは信頼に値する都と呼ばれ/万軍の主の山は聖なる山と呼ばれる。』
その希望をもって、やがては独立するという来るべき時を待ち続けるという一派もいたらしい。
その後、中近東を200年程にわたり支配したペルシャ帝国も弱体してくる。そしてダレイオス3世は、紀元前333年イッソスの戦いでマケドニアのアレキサンドロ大王に敗れてしまう。
破竹の勢いのアレキサンドロ軍は南下してエジプトに向かう。エルサレム神殿を中心とするユダヤ教団は、ペルシャの庇護の下に繁栄していた。なのでこのアレキサンドロ軍の進攻のよって、今保たれている秩序が乱れるのではないかという不安を感じてもいたようだ。しかし一方ではこの機会に独立できるのはというような期待を持つものもいたらしい。
ペルシャ帝国の役人と、それと手を組むエルサレム神殿の祭司達に押さえつけられていたイザヤの流れを引き継ぐゼカリヤたちシオン・グループは、アレキサンドロ大王軍を解放軍として期待した。
当時エルサレム神殿は、宗教的メシアの大祭司を頂点とした宗教・経済センターとして、富裕な在外ユダヤ人の寄金で繁栄していたが、内実は、指導層は腐敗し大祭司の権力を巡っての内紛が絶えなかったそうだ。
そこでゼカリヤたちシオン・グループはアレキサンドロ大王こそ自分たちを開放してくれるメシアである、つまり主なる神がアレキサンドロ大王を遣わして自分たちを開放してくれるのだ、と考えたようだ。今日の聖書に出てくる「あなたの王」とは直接的にはアレクサンドロ大王のことを指しているようだ。アレクサンドロ大王が自分たちを開放してくれる、現状を打破してくれると期待したようだ。
アレクサンドロ大王は、エジプトへ遠征する途中にエルサレムを通過し、エジプトでアレクサンドロスという町を作り、そこからインドへ向かい途中にもエルサレムを通過しただけだったそうだ。シオン・グループの期待するような改革もなかったらしい。
王
ユダヤの国は、南エジプト、北のアッシリア、東のバビロニアやペルシャなどといった周りの大国に挟まれる交通の要衝でもあり、それらの大国に侵略されたり補囚されたりという、周りの国に翻弄されることが度々であった。
だからこそ、やがてはまた、かつてのダビデのような偉大な王が現れて、自分たちの国を強い国にしてくれることを待ち望んでいたらしい。外国の王でさえ、自分たちを解放してくれる、救ってくれるメシアなのではないか、救い主なのではないかという期待を持つことも度々あったのだろう。
ゼカリヤ書9章9-10節でも、やがて自分たちを解放し救いだしてくれる王が、メシアが、救い主がやってくるという希望を語っている。ところがここで言われている王は、ろばに乗ってくると言われている。しかもその時神は、エフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ、なんてことを言っている。ユダヤの地から兵器をなくす、戦争の道具をなくすというわけだ。
話しはそれるけれど、クリスマスの時にイエス・キリストは馬小屋で生まれたとよく言われるけれど、ベツレヘムという田舎に馬はいなかっただろうと聞いたことがある。馬というのは戦争に役立つので、エルサレムに集められていたはずで、イエスが生まれたという家畜小屋には馬はいなかっただろう、と聞いた事がある。ちなみに聖書には家畜小屋で生まれたとも書かれていない。ただ飼い葉桶に寝かされたと書かれているだけだ。
それはさておいて、ゼカリヤは新しい王はろばに乗ってくると言った。そして福音書を書いたマタイは、イエスがエルサレムにろばに乗って入城した、そのときに成就した、と告げている。イエスこそ、かつてゼカリヤが予言した新しい王、救い主メシアなのだと告げている。
勝利
どうしてその新しい王はろばの乗ってくるのか。ゼカリヤは、彼は神に従い、勝利を与えられた者、と告げている。ろばに乗ってくる理由は、勝利を与えれた者であるからなんだろうと思う。もう勝利を与えられているからろばに乗ってくるのだろう。まだ勝利してなくて、これから勝利するために戦いに出かけていくというのであれば、勝利するために馬に乗っていく。しかしもう勝利しているのであれば馬は必要ない。そしてすでに勝利を与えられた者だから馬に乗る必要はない、だからろばに乗って来るのだろう。
ヨハネによる福音書16:33でイエスは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と言っている。
イエスはすでに勝利を与えられた者であり、既に世に勝っている者だったのだろう。しかしその勝利は敵を打ち負かせるような勝利ではないようだ。
ところがイエスは十字架に架けられ処刑されてしまった。それは勝利ではなくて敗北のように見える。
最近、勝ち組とか負け組とかいう言葉が流行した。テレビでは大金持ちになった人の話しが多くなったような気がしている。僕自身が気にしているから目につくのかもしれないけれど。とにかく大金持ちになることが勝ち組になることだと言われているように感じている。財産ををいっぱい持つことがこの世の勝利であると言われているような気がする。あるいは他の者を押さえつける力を持つこと、周りに負けないものを持って相手を従わせることが勝ち組のように言われいてるようだ。
そういう基準で考えるイエスは完全に負け組だなと思う。力を持ってまわりを押さえつけ黙らせることもないし、政治的な力もなかったし、財産というようなものもなかったようだ。どう見ても負け組だ。
なのにイエスは自分はすでに世に勝っている、と言っているのだ。イエスの勝利とは何なんだろうか。
トゥルニエという精神科医だったかな、その人がこんなことを書いているそうだ。「人間の本当の価値は人がどれだけ近いかにある。現在人類が必要としているものに、親切、安心、情緒、感受性、美、直感といった属性がある。ところが今日それらは「弱い」というレッテルの下に捨て去られている。」
そんな弱さを通して、相手との近さを通じて感じるつながり、親切とか安心とか思いやりとか、そんなものを感じ取れること、つまり誰かを愛し愛されること、それこそが勝利なのではないかと思う。
イエスはまさにそんな勝利を与えられた者だった。そのイエスが私たちのもとへ来てくれた、そして今も私たちと共にいてくれている。勝利の源である愛と憐れみを私たちへ届けてくれている。
イエスに愛され憐れまれていること、それは私たちの勝利なのだ。