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礼拝メッセージより
「小さき者」 2013年11月17日
聖書:ミカ書5章1-3節
背景
ユダヤの国が北王国イスラエルと南王国ユダに分かれていた時代、そして北のイスラエルがアッシリアによって滅ぼされ、そのアッシリアの脅威が南のユダにも迫ってきていた時代だった。
南王国のアハズ王はアッシリアに服従したが、その息子のヒゼキヤ王は反逆し、逆にアッシリアの攻撃を受けた。しかし莫大な賠償金を支払うことで、エルサレムはどうにか助かり、ヒゼキヤも王として残った。
ミカは田舎の小さな町にいたけれども、その町はアッシリアによってペリシテの領土とされたことで、エルサレムへ逃げて行ったのではないか、とも推測されるそうだ。そのようなことがあったせいなのだろう、ミカはエルサレムにいる上流階級に対しての痛烈な言葉を語っている。
しかしその合間に、約束に満ちた回復の預言も語られている。4-5章は補囚の預言と補囚からの帰還についての預言が交互に語られている。そして今日の箇所はメシア、救い主に関しての預言と言われているところだ。
ベツレヘム
ミカはエフラタのベツレヘムについて語る。ベツレヘムとはパンの家という意味で、エルサレムから南に約9kmの地にある。かつてルツがナオミと共にモアブから帰還した地であり、ルツとボアズの子孫としてダビデが誕生した町でもある。
エフラタとは、実り多いという意味で、エフライムとベニヤミン部族の間の境界地域を言う地名であり、ベツレヘムの古い地名であった。パンに家とか実り多いという意味からも、この地方は肥沃な土地で穀物や果物に恵まれていたようだ。
このベツレヘムからイスラエルを治めるものが出る、と告げる。そして新約聖書は約束されたメシアがベツレヘムで誕生したと告げる。
預言
マタイによる福音書2:1-5 新共同訳
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
小さき者
祭司長たちや律法学者たちもメシアがベツレヘムで生まれると言う事を知っていたということだ。このミカ書の言葉は広く知れ渡っていたらしい。
マタイはこのミカの言葉はイエスにおいて成就した、イエスにおいて現実のものとなったと語る。マタイによる福音書では、イエスの親となったヨセフとマリアはベツレヘム出身でもともとそこに住んでいたかのようだ。そして占星術の学者たちにだまされたことで怒ったヘロデ王から逃げるためエジプトへ行き、その後ガリラヤ地方のナザレに住むことになったと書いてある。
一方ルカによる福音書では、ヨセフたちはもともとナザレに住んでいたが、人口調査がありダビデ家に属していたので、ダビデの町であるベツレヘムに行き、たまたまベツレヘムの家畜小屋でイエスを産んだということになっている。
どっちの福音書が本当なのかわからない。イエスはヨセフとマリアという名もない夫婦の子どもとして生まれたので、確かな資料なんてものはもちろん残ってもいないだろう。王の子どもとして生まれたならばいろんな資料が残っていて、いつどこで生まれたということも分かるかもしれない。けれどもイエスは小さな町の名もない夫婦のもとに生まれてきたというのだ。
面白いことにマタイによる福音書では、ミカ書の引用をするときに、決していちばん小さな者ではない、と変わっている。キリストが生まれるからには小さいものではないのだ、という気持ちがあったのかもしれないと思う。
キリストなんだから救い主なんだから小さくはない、偉大なんだ、力強いのだ、と思う気持ちも分かるような気がする。
でもイエス・キリストは大きな町、神殿のある町エルサレムではなく、小さなベツレヘムで生まれたというのだ。王の子どもとしてではなく、名もない夫婦のもとに生まれたというのだ。
その後イエスは名もなき小さき者たちのところへ出かけていくようになった。のけものにされ、差別され、見放されている人たちのところへ出かけていき、そんな人達と共に生きた。そして無力なまま十字架で処刑された。
イエス・キリストは、今もそんな小さな小さな者たちのことをしっかりと見ているということだろう。そしていつまでもイエス・キリストは小さな者たちの中におられるということなのではないかと思う。
聖書には弱く小さいものを選ぶということが多く出てくる。神の目的を成し遂げるために最も小さき者、恐らく最も取るに足りないものを神は選ばれた。
ギデオンという士師がいたが、彼はは最も貧弱な氏族の者、家族の中で一番若い者であった(士師記6:15)。サウルは自分の氏族がイスラエルの中で最も小さな部族だと述べた(サムエル記上9:21)。主は末っ子のダビデを選ばれた(サムエル記上16:1-13)。
そして、世のメシアであり救い主である方が飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子であるという宣言。小さき者を選ぶこと、それは聖書の主題でもあるようだ。
弱く小さな乳飲み子。それも家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされている子。そしてまったく無力な十字架の死、しかしそこに神がおられる。そこに神の意志がある。その弱さの中に神の意志がある。そこにこそ神がおられる。
私たちは力を望む。何物にも負けない、動揺しない、動かされない力を求める。誰にも負けないものを持つことを求める。しかしなぜか神は弱い者と共におられる。何も誇るものを持たない小さき者と共におられる。神が共にいる、それこそが私たちの力だ。私たち自身には何もなくても、神が共にいることこそが私たちの力だ。
愛される
「誰かを心から愛すると力が出る。 誰かに心から愛されると勇気が出る。 」(老子/中国の哲学者)
神は私たちを愛している、と聖書は告げる。自分のダメさを自分で責めて自分で落ち込むことが多い。成長しないこと、小さいこと、失敗したこと、いろんなことで自分はダメだと思う。そして愛されていることなんてすっかり忘れていた。愛されてますよ、なんて説教では話すけれど、自分では愛されているなんてことはすっかり忘れていた。どうして人数を増やしてくれないのか、献金も増やしてくれないのか、なんてことばかり考えていて、愛されていることなんてどこかに飛んでいたようなきがしている。
イエス・キリストは小さき自分に目をむけ、小さき自分を愛してくれているのだ、ということを思い出した。