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礼拝メッセージより
「ゆりかご」 2013年11月10日
聖書:ヨブ記42章1-6節
友達
ヨブを心配してかけつけた友人たちは7日間無言でヨブに寄り添います。
その後ヨブは、生まれてこなかった方が良かった、死んでしまいたいと神に向かって嘆き訴えます。
これを聞いた友人達は、今まで多くの人を元気づけてきたのに、自分のこととなるとダメではないか、しっかりしろ、と激励します。自分の悪を悔い改めて神と和解しなさい、というようなことを進めますが、ヨブはそんな悪いことはしていない、罪は犯してはいないと主張して話が噛み合いません。
自分は悪くないと言えば言うほど友達は向きになって早く罪を認めろと迫ってくるかのようです。
裁判のドラマなどで、反省する気持ちがないので刑が重くなる、というようなことを言っているのを見ることがあります。冤罪事件で捕まって一所懸命に無実を主張しているのに、全く反省していないので情状酌量はない、なんてことで重罪になるというようなドラマをよく見ます。本当の裁判でもそうだったら本当に恐ろしいことだなと思います。
ヨブはまさに冤罪で被告に立たされているかのような気がします。こんな罰を受けるいわれはない、律法もきちんと守ってきている、気づかないで犯すかもしれない罪のためにも献げ物をしている、なのにどうしてこんな目に遭わないといけないのか、どうして神はこんなひどい目に遭わせるのか、ヨブはひたすらそのことを主張しますが友達はそのことを聞いてはくれません。罪があるからこそこんな目に遭っているのだという自分の理解から離れることはありません。逆に罪を認めないヨブを責める側になってしまっています。
ヨブにとっては自分の苦しみや悩みを聞いて欲しかった、わかって欲しかったのだろうと思います。間違ったことをしていない自分がどうしてこんな苦しい目に遭わないといけないのかという納得出来ない思いをまずは私かッて欲しかったのではないかと思います。しかし友人達はそれはお前が悪いからだ、お前が罪を犯したからだ、早く悔い改めろとは言いますが、結局はヨブの苦しみをわからなかったようです。相手が苦しいと言っているのに、その原因はこうだ、お前がこんなことをしたからだ、と言ったり、こうすればいい、これを変えればいい、と適当に言ってしまうことが多いなあと思いました。
ヨブは自分の言いたいことを友人が来てくれなかったことで、最後は神に向かって、どうしてこんなことになっているのか、自分の言うことを聞いてくれ、分かってくれ、こんなことでいいのか、どうか答えてくれ、というようなことを語ります。
次にエリフという若者が登場します。エリフは3人の友人とは違い、ヨブの苦しみに寄り添いつつ、苦しみを通して、人は初めて神に出会うとか、神の知恵は計り知れないのだ、というようなことをいいます。人間が神を全部理解などできない、あなたの訴えは神に届いている、あなたは神を待つべきだ、神の計画と神の定めた時は人間にはわからない、それを分かっているかのように納得出来ないと大騒ぎするのは傲慢だ、というようなことを語ります。
ヨブがエリフの言う事に納得したのかどうかわかりませんが、そこに突然神が登場します。38章から「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは。」という言葉で神が語り始めます。
お前はどれほどのことが分かっているのか、わたしがこの大地を据えた時、お前はどこにいたのか、なんてことからはじまり、神は自分が天地を造り、星を造り、すばるとかオリオンとか大熊なんてことも出てきますが、それから動物を造り子どもを産む次期も定めたことなど、あらゆるものを備えたのだというようなことを事細かく話します。
そんなことを語る神に対する答えが今日の42章になります。
圧倒的な神の偉大さを示されたことでヨブはまさに圧倒されてしまったかのようです。神を自分と対等なもののように思って論争を仕掛けていたことにヨブは気づいたのかもしれません。言われたとおりに従っていれば良い物をくれるおじいさんのように思っていたのかもしれません。おじいさん、ちゃんと従っているのにどうしておかしなものをくれるんですが、約束通りいいものをくださいよ、と文句を言っていたかのようです。
しかし神はきっとヨブの思っていたよりはるかに大きな存在だったのでしょう。宇宙の大きさに比べると人間は本当にちっぽけな存在でしかありません。神はその宇宙をも支配しているのだというわけです。あまりに大きすぎてどれほどなのかもわかりません。その神に対してヨブは文句を言い続けていたということに気がついたのでしょう。
なんだかゆりかごの中で毛布がずれているとぐずっている赤ん坊のような気がしてきました。毛布がずれていて具合が悪くなっていることを赤ん坊は必死になって訴えるわけです。こんなんじゃゆっくり眠れないとぐずるわけです。しかし親はそんな赤ん坊の生きること全部を支えています。赤ん坊はそんなこと気が付きもしないでどうにかしてくれと泣きます。
神はそんな親のようなもののような気がします。私たちには見えない外の世界に事まで備えて整えていてくれているのだと思います。そんな偉大な神に支えられているのだ、ということをこのヨブ記は教えてくれているような気がしています。
苦しみや災難は大変なことです。赤ん坊にとっては毛布がずれるのは大変なことです。しかし親はゆりかごごと赤ん坊を支えています。
私たちの人生の中にもいろんな苦しみがあります。しかし私たちの人生そのものを神は支えてくれているのだ、ということをヨブ記は教えてくれているような気がしています。