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礼拝メッセージより
「苦しみの中で」 2013年11月3日
聖書:ヨブ記1章6-22節
ヨブ記
ヨブ記を誰が書いたのかはわからない、いつ頃書かれたのかもわからない、そうです。架空の土地の架空の人物ということなのかもしれません。
1章のはじめのところにヨブの説明が出てきます。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた、7人の息子と3人の娘がいて、羊7千匹、らくだ3千頭、牛500くびき、雌ろば500頭、それに使用人も非常に多い、東の国一番の富豪であったとされています。
そして誰がいつ罪を犯し心の中で神を呪ったかもしれないので、それを赦してもらうために定期的にいけにえを献げていました。
サタン
ヨブはいわば財産も家族もいっぱい持っていて、幸せに過ごしていたわけですが、ある日主の前に使いたちが集まりサタンもそこに来たというところから物語が始まります。サタンは後々悪魔のことを意味するようになりますが、ヨブ記では神の使いのうちの一人であるかのようです。そして地方を巡回してほうぼう歩きまわるものであると書いてあります。
そのサタンに向かって主なる神が、ヨブを見たか、こんな無垢で正しい人はいない、と言います。それに対してサタンは主に、「ヨブは家族も財産もいっぱい持っているから無垢でいられるだけだ、財産を取り上げてしまえばあなたを呪うにちがいありません」と言います。それを聞いた主は「そういうならばお前の好きなようにしろ、ただしヨブには手を出すな」と答えます。
そんな許可をもらったサタンは、ヨブの財産を家族と立て続けに葬り去ってしまいます。
主なる神とサタンとの戦いにヨブは否応なしにひきずりこまれてしまいます。ヨブにとっては神とサタンという天上界の争いにまきこまれてしまったというわけです。しかもヨブが無垢でいられるか、いられないかという、まるで神とサタンが賭けでもして遊んでいるかのような、言わばふざけた争いに巻き込まれてしまいます。
この時ヨブは、衣を裂き、髭をそり落とし、地にひれ伏して、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と言って、神を非難することもなく、罪を犯さなかった、と書いてあります。神とサタンの賭けは神の勝ち、と言ったところでしょうか。
天上界
しかし神とサタンとの賭けは天上界の出来事であって、それをヨブはもちろん知ることはできないわけです。ヨブにとっては突然自分の身に降って湧いた災難だったはずです。
神の命令に従っていれば幸せになる、災難に遭い苦しみにあうのは神の命令に背いているからだ、と考えられてきました。旧約聖書でも神の律法に従うことで幸せになるというようなことが書かれています。だから幸せに生きるために、不幸にならないために、災難に遭わないために、律法をちゃんと守りなさい、神の命令に従いなさい、と書かれています。
ところが実際の人生ではものごとはそう単純ではない、どんなに神に従っていても災難に遭うこともある、一体それはどうしてなのか、そう考える人がいたということでしょう。
叫び
その後2章では神とサタンが次の賭けをします。前回はヨブの財産をなくしましたが、今回はヨブを病気にすれば、神を呪うだろうと言い、ヨブの全身を皮膚病にかからせます。ヨブは体中をかきむしりながらも、わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか、と答え罪を犯すことはなかった、と書かれています。今回の賭けも神の勝利、ということになりました。
この前尿路結石になった時のことを思い出しました。何をしてもどんな格好をしても耐え難い痛みが続いていました。このまま痛みに耐えることは絶対無理だと思いました。助けてくれ、痛みを取ってくれと祈っても全然治りませんでした。こんなのが続くのなら生きてられない、死んだほうがましだと思いました。しばらく「痛い、痛い」とずっと言ってました。
2章までで終わればヨブは何があっても神に逆らうことのない、文句も言わない弱音も吐かない無垢な人ということになりそうですが、3章になると自分の生まれた日は消え失せよ、と言い出します。「主の御名はほめたたえられよ。」と最初はキレイ事を言っていたけれど、苦痛がずっと続くとそれに耐えられずに、生まれてこなかった方が良かったと言い出します。
やっとヨブも人間らしくなった、という気もします。
その後ヨブの友達がやってきてヨブは彼らと問答をします。友達はこんなことになってるのはお前が罪を犯したからだ素直に罪を認めて悔い改めなさいと言いますが、ヨブは罪は犯していない、こんなことになっているのは何かの間違いだ、というような問答を繰り返します。
災難は罪のせいなのだ、という前提はヨブも友達も同じように持っています。ヨブも災難が起きないように神に従ってきて、気づかない罪のためのささげものもしてきたのだから、この自分に災難が起きるはずはない、何かの間違いだと主張します。
期待
自分の期待通りになってほしい、と神に願い祈ります。健康であるように、災難に遭うことのないように、貧乏にならないように、そんな期待を持って祈ります。神に忠実に従っていれば、そんな私たちの願いを叶えてくれるはずと思います。むしろそういう神であって欲しいと願っています。
しかし現実はなかなかそうはいきません。苦難もあるし、思ってもない苦しみ、私がいったい何をしたというのかと思うようないわれのない災難に遭うこともあります。
なぜそんなことが起こるのか、ひとつの答えがヨブ記のように、神とサタンとの賭けというか争いというか、そんな天上界での出来事によるものということでしょう。そうかもしれません。しかしそのことがヨブには全く見えないように、仮に天上界でそんな争いがあっても、賭けをされていても、私たちにとっては知る由もありません。理由のわからない災難がやってくるだけです。だからこそまた悩むわけです。そんな時私達は、「神さま、一体どうしてこんなことになっているのでしょう、どうして私がこんな目に遭わないといけないのでしょう」と言うしかありません。
そんな風に私たちが自分の苦しみの原因をみんなはっきりと知ることはきっとできないのでしょう。原因が自分にあるならば、例えば自分が悪いのが原因ならば悔い改めればいいわけですが、原因が自分ではなく、自分の関わり知らないところにあるならば、どうすることもできません。逃げようもありません。ただその苦しみを受け止めるしかありません。
私たちは災難や苦しみがないことを願い求めます。でもいくら求めてもどうやらそれは叶わない願いのようです。そうすると私たちは、いろんな災難や苦しみのある中で、そこを生き抜く力、それを耐えぬく力、それを求めるべきなのではないかと思います。そんな苦しみのある世の中でどのように生きたらいいのか、それを求めていくべきなのだろうと思います。
ヨブは苦しみの中で、神がどう自分に関わっているのかということを考えてきたのではないかと思います。
神はこの世の中から苦しみや災難をなくそうとはしてないのかもしれません。苦しみの理由も教えてはくれないようです。でもそんな苦しみの中で生きる私たちに寄り添ってくださっています。苦しみにあい、一体これは何なのか、どうしてこんなことになるのかと叫ぶ私たちと共にいてくださいます。
苦しみの原因はわかりません。でも神が寄り添っていてくれることで、イエス・キリストが共にいてくれることで、私たちはこの苦しみの中を生き抜くことができるのではないでしょうか。