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礼拝メッセージより
「神と共に生きる」 2013年10月27日
聖書:コヘレトの言葉3章1-11節
人生
昨日ラジオを聞いていたら、恐竜は地上に1億5000万年くらい地上を闊歩していた、一方人間がチンパンジーと別れて人と言われるようになってから500万年位しか経っていない、と言っていた。恐竜は大きな隕石が地球に衝突して滅びたんじゃないかと言われているみたいだけれど、やがて人間も滅びてしまうのかもしれない。放射能によって滅びるのかもしれないなんて思う。
地球が誕生してから46億年だったかな、それに比べればやっぱり人間の歴史は微々たるものであるし、その中でも自分一人の人生はたかがか50年なんて「あ」という間もないくらい短い。
人間は塵から生まれて塵に帰るというようなことを聖書にも書かれているけれど、確かに地球の塵が少し舞い上がって、やがてまた地上に落ちていく、人生とはその間の出来事でもあるような気がする。何やってもやらなくても、またもとに戻るだけ、地球から見ればそれだけのことでもあるのだろう。
コレヘト
コヘレトは1章で、「なんという空しさ、すべては空しい、太陽の下、人は労苦するが すべての労苦はなんになろう。一代過ぎればまた一代が起こり 永遠に耐えるのは大地。」(1:2-4)なんて言っている。
コヘレトとは「宗教的な集会で語る者」というような意味なのだそうだ。そこで「伝道者の書」とか「伝道の書」というふうなっている聖書もあるそうだ。しかしコヘレトとは誰なのか、このコヘレトの言葉の著者が誰なのかはよくわからないらしい。
時
今日の箇所では何事にも時があること、定められた時があること、が書かれている。生まれと時とか死ぬときとか、具体的に28個も並んでいる。意味のわかりやすいものもあるし、なんのことだかわかりにくいものもある。
しかし、神はすべてを時宜にかなうように造った、と言っている。前の口語
訳では、「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」となっている。
また神は、永遠を思う心を人に与えられる、けれども、神のなさる業を初めから終わりまで見極めることは許されていない、とも語る。
地球の46億年と比べるとたかだか自分の人生は一瞬でしかない。しかし自分にとってはそれは大変な人生である。やがて塵に帰るしかない人生であって、そこで何をしようが多分何も残りはしない。子孫の記憶に残ったり、偉大な人は歴史に名を残すこともあるだろうけれど、やがて人間も絶滅し、地球もやがては太陽に飲み込まれて丸焼きになってしまうわけど、結局は何も残りはしない。
でも何かを残すこと、何かが残ることよりも、そこでどう生きるのかが大切なのだと思う。地球や宇宙の歴史に比べれば、人の一生なんてのは一瞬の出来事でしかないけれど、その一瞬、一瞬をどう生きるのかが大切なのだと思う。
時
その一瞬一瞬がここで言われている「時」なんだろうと思う。
コヘレトは神がその「時」を定めているというのだ。
考え方によっては人生なんてのは全く空しいものでもあると思う。何を残すのか、なんて考えてもきっと何も残せない。ただ塵に帰るだけという空しいものでしかない。
しかし今この時、この一瞬一瞬を大事に生きていくならば、人生には意味が生まれるのだろう。一瞬一瞬を神に与えられた時として生きていくならば、つまり神と共に生きるならば、私たちの人生には意味が生まれる、ということなんだろうと思う。
最高の時であろうが、最悪の時であろうが、
それが、私たちに与えられた唯一の時である。
(アート・バックウォルド/アメリカのユーモア作家)
全くその通りだ。あの時ああしていたら、こうしておけば、とよく思う。けれど、人生には本当はたらればはない。戻ることはできない。
結局人生は一本道だ。前に道はなくて後ろにしか道はない。そして振り返るとそこにあるのは一本道だ。
私たちはその時々に与えられた「時」を淡々と生きていくしかない。
しかしそこでただ一人で生きていくのか、それとも神と共に生きていくのかということだ。その時を神が与えたというのは神と共に生きていくということだ。
神と共に生きる
しかしコヘレトが言うように、私たちは神の計画のすべてを知ることはできない。特に苦しく大変な時を過ごすような時、この苦しみが終わるのはいつなのか、いつまで耐えなければならないのかと思う。いつまでなのかということが分れっていればそれまで耐えようという気にもなるけれど、それが分からないながら耐えていかないといけないというのは大変つらい。
神もいなく、なんの計画もない中での苦しみならば、私たちはどっちの方向を向けばいいのかも分からない。ただ右往左往するしかない。しかし全部はわからなくても、神の計画の中に生きていることが分かっているならば、いつかはわからなくても神がその時を備えてくれていることが分かっているならば、私たちは神の方を向いていけばいいということになる。神に向かって叫べばいいということになる。
神と共に生きるということは、神に向いて生きるということなんだろうと思う。もちろん分からないこともいっぱいあるけれど、これはどうしてなのか、それはいつなのか、いつまで待てばいいのか、と神に向かって叫んでいく、それが神と共に生きるということなんだろうと思う。
最高の時も最悪の時も、私たちはその時を受け取っていくしかない。しかしその時は神から与えられた時として受け取っていくならば、私たちはその時を希望を持って受け取っていくことができるだろう。
神は私たちにこれからどんな時を用意されているのだろうか。時宜にかなった、美しい時を用意してくれているはずだ。そのことを信じて希望を持って生きていきたいと思う。