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礼拝メッセージより
「電動アシスト自転車」 2013年10月20日
聖書:箴言16章1-9節
億劫
最近何かと億劫で、いろんなことを後回してしてしまう。誰かと会うのも面倒に思ったり、ちょっとした買い物も次でいいやとなってしまう。礼拝のメッセージもどんどん後回しにして、結局日曜日の朝にならないとできない。困ったものだ。
箴言
今日の聖書箇所の箴言とは、格言とか教訓というような意味だそうで人生から得た処世訓とでもいうようなものだ。箴言という言葉は文語訳聖書の時から使われていて、この箴というのは、裁縫や医療などで使われる「はり」のことだそうだ。チクリと刺す気の利いた言葉、というような意味になるようだが、聖書の箴言の内容はそれよりもやはり処世訓と言ったものの方が多いらしい。
1章には、ダビデの子ソロモンの箴言と書かれているけれど、本当にソロモンの言葉というわけではなく、恐らくこの言葉を権威付けるためにそう書かれているらしい。
人生を生きてきた上で、言わば体験から出て来た言葉、そして語り伝えられた教え、子どもや孫に伝えておきたいというような教訓というようなもののようだ。
心構え
16:1に「人間は心構えをする。主が舌に答えるべきことを与えてくださる」とある。16:9にも似たような言葉がある。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」。
いつも主が答えるべきことを与えてくれたらどんなにいいだろうかと思う。話す事を主が用意してくれたらなあと思う。メッセージを準備する時にはいつも一体何を話したらいいんだろうかと悩んで苦しんでいる。主が何を話したらいいのかを全部教えてくれたら、原稿が天から降ってくればいいのにと願うけれどもちろんそんなことはない。語る言葉が自然と湧きあがってくればメッセージも楽しいのかもしれないが、そんなこともない。
この箴言みたいにはならないよ、と思うけれどよく見るとここにはその前に、人間は心構えをする、と書いてある。心構えってなんだろう。それは人間が考えるということなんだろう。主が答えることを与えてくれるとは言っても、人間が何も考えないでも口が勝手に動き出してしゃべり出すというわけではないのだろう。そうではなく人間が一所懸命に考える、そこに神が答えるべきことを与えてくれる、助けてくれるということなんだろうなと思う。
9節も同じように、主が一歩一歩を備えてくれるというのも、神が勝手に人間を引っ張り回すというのではなく、人間が自分の道を計画する、つまり人間が考えるその考えを後押しして一歩一歩を備えてくれるということだろう。
ゆだねる
3節に「あなたの業を主にゆだねれば/計らうことは固く立つ」とある。ゆだねるってなんだろう。お任せってこと?あとはよろしく、ってこと?なんだか丸投げするみたいだ。
ゆだねるって漢字で書くと委ねるだよなあ。ヘブライ語の原語だと「転がす」という意味があるそうだ。人生を圧迫するような重い石(重荷)を神さまの方へ転がすことによって、神さまが成功への道を開いてくださる、ということだと聖書教育に書いてあった。
やっぱり丸投げのような感じがする。丸投げだとしたら、あとは神さまがしてくれるんだからということで自分は何もすることがないってことになりそうだ。聖書教育には、上の言葉に続けて、人が努力すれば、神の導きは不要だというのではありません、また神の導きがあれば人は努力をしなくてもよいということでもないのです、と書いてあった。
今回最初に読んだ時にこの「ゆだねる」という言葉が気になった。でも「ゆだねる」のはただ神にまかせて自分は何もしないということとは違うのだ、ということもよく聞く。3節だけ見ると丸投げみたいに見えるけれど、丸投げじゃないというのはどこに書いてあるんだろう、と思ってたら1節と9節に書いてあった。
そう思って聖書教育をよく見ると、転がすのは人生を圧迫するような重い石、重荷であって、自分のすべきことを全部転がすとは書いてなかった。自分がなすべきことをする上で邪魔をするもの、それを転がす、それを神にゆだねるということなんだろうと思う。
ブレーキ
しかし人生には邪魔なものや人生に歩みにブレーキをかけるものがいろいろとあると思う。この先どうなるんだろうかという心配や、あの時あんなことをしなけりゃ良かったというような後悔や、なんで自分はこんなに駄目なんだろうと自分を責める思いなどがある。そんな思いが私たちの人生にブレーキをかけるように思う。
ブレーキがかかると、最初に言ったように何をするのも億劫になる。億劫になって後回しにしたり、何もしなかったりして、そんな何もできない、だらしない自分を自分で責めてまた余計にブレーキがかかって余計に動けなくなってしまうなんて悪循環に陥ってしまう。
そんな風に自分にのしかかる心配や後悔や自分を責める思いこそ神にゆだねればいいということなのかもしれない。しかし実際そんな自分を苦しめる思いだけをきれいさっぱり切り離すこともできないわけで、そんな思いを持った自分をまるごと神へ転がす、それがゆだねるということなんだろう。
しかしゆだねるとは神に丸投げして自分は何もしないというのではないだろう。そうではなくて自分のすること、自分が考えること、そんな生きること全てにおいて神が助けてくれるように願うこと、つまり自分自身をまるごと神に預けるようなものだと思う。そして生きることすべてにおいて神の助け、神の後押しがあることを信じていくこと、それがゆだねるということなんだろうと思う。
電動アシスト自転車
なんだか電動アシスト自転車みたいだなと思った。実際に乗ったことはないけれど、電動アシスト自転車は自分がペダルを踏むとその分電気の力で助けてくれるそうだ。だから急な坂でも登ることができるそうだ。でも自分が踏まないときには助けはない。だからこそ自転車なんだろうけれど。
ゆだねると言うことは、その電動アシスト自転車に似ていると思った。箴言を書いた人たちは、ペダルを踏むごとに、つまり自分のなすべきことをするその時々に神の助けを感じてきたのだろう。生きることすべてにおいて、一歩一歩を神が支えて助けてくれ、あらゆることにおいて神がアシストアシストしてくれたのだろう。そしてその経験を通してこの教訓を語り伝えてきたのだろう。
一人ではとても前に進めないような、重い重荷を抱えて私たちは生きている。強力なブレーキとなるようないろいろな思いも抱えて生きている。しかし自分でペダルを踏んでみなさい、きっと神の助けがある、きっと神の後押しがある、だから自分には少ししか力がない時にも、全く力がない時にも神のアシストを信じてペダルを踏んでみなさい、先人たちからそう励まされているような気がしている。