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礼拝メッセージより
「ひとりじゃないって」 2013年10月6日
聖書:詩編 23編
詩編23
今回詩編23編を見ているうちに、♪ひとりじゃないって素敵なことね♪って歌があったなあと思い出した。天地真理だったかな。
羊飼い
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない、とこの詩編の作者は語る。日本では羊を見ることもあまりないし、羊飼いなんて尚更見ることはない。羊は羊飼いに世話をされてどうにか生きていられる動物なんだそうだ。ひどく近眼で、移動する時も前の羊の尻尾を追っかけてやっとついていく位なのだと書いているものもあった。なので迷子になりやすいらしい。
パレスチナの地方は、川や湖の近くは緑があるけれども、基本的に荒れ野が多いそうで、特に乾期になると、羊飼いは羊をつれて草のあるところを探して移動するそうで、鞭や杖を使って、羊たちを誘導していったり他の獣たちを追い払ったりするそうだ。
欠けることがない
この詩編の作者は、神はそんな羊飼い、原文にはここは「私の羊飼い」となっているそうだけれど、主である神は私の羊飼いである、そして私には何も欠けることがない、という。
欠けるとは本来あるべきものがないということだろう。だから自分が欲しいと願うものが何もかも手に入るということではないだろうと思う。人間の願いなんてほとんど無尽蔵に近いとおもうけれど、そして願ったとおりに、祈ったとおりに神がなんでも与えてくれたらいいのにと思うけれども、それは欠けることがない、というのとは違うだろうと思う。
欲しいものはいっぱいある。あれもこれも手に入ったらどんなに嬉しいだろうなと思う。大きな車に大きな家に大きなテレビに、美人の妻に、素直な子どもを持ちたいと願ったりする。それにすぐれた知能と健康な身体と、みんなからの賞賛も欲しい。どんだけ欲張りなんだと思うけど、欲しいものって限りなくある。
でも欲しいものと必要なものは必ずしも同じではないし、結構違っている。本当に必要なものってなると、案外少ないのかもしれない。詩編の作者は、私には何も欠けることがない、と言っているけれど、それは自分に必要なものは欠けることがなかった、ということなんじゃないかという気がする。何歳でこの詩を作ったのかわからないけれど、それまで生きてきた中で、自分の人生を振り返ってきた中で、自分に本当に必要なものはみんな与えられてきた、欠けたことは何もなかったということなんだろう。そう思えるってすごいなと思う。
僕はあれもこれも足りないと思うことが多い欲張りで、いつも自分が持っていないもののことばかり考えている。家や車なんてこともそうだし、あの時もっと勇気があったら、もっと自信があったら、もっと違った人生になっていたんじゃないか、なんてことを思うこともある。でもそんなないもののことばかり考えていても結局はむなしくなるばかりだ。
でもよくよく考えると、案外必要なものは実はもう与えられているのかもしれないと思う。というか、今与えられているものこそが必要なものなのかもしれない。今持っているもの、持ち物もそうだし、今の境遇、家族も、友だちも、そして自分自身の能力も性格も、みんな必要なものを与えられている、与えられているなんて言い方はおこがましいけれど、自分にとってふさわしいものを備えられているというか、ふさわしいところに生かされているということなのかもしれないなと思う。
そう思うとなんだか不思議と安心するというか嬉しくなるというか、ちょっと元気が出てくるような感じがする。
共にいる
欠けがないと思えたとしても、苦労がないわけではない。この詩編の作者にもいろんな大変なことがあったようだ。死の陰の谷を行く時も、とあった。本当はここは死の陰の谷ではなくて、暗黒の谷、暗闇の谷、という言葉だそうで、本来は死という意味合いはないそうだけれど、兎に角そんな暗黒の時がこの作者にもあったわけだ。それはきっと誰の人生にも言えることなんだろうと思う。暗黒の時を過ごさないといけない時がある。でもそんな時にも災いを恐れない、と言うのだ。
災い恐れないでいられたら、恐いものなしってことだなと思う。そして恐れない理由は、あなたがわたしと共にいてくださる、からだというのだ。あなたとは主、つまり神のことだろうけれど、神が共にいてくれるから、たとえ暗黒の谷にいる時でも災いを恐れないというのだ。
今、東広島呉道路が黒瀬までできていて、その黒瀬で降りてそのまままっすぐ行くと谷を横切っていて、まるでジェットコースターのような降ってまたすぐ登るようになっているのが2箇所続けてある。この前そこを通りながら、人生にも谷があるよなと思った。谷の底の部分にいる時にはまわりの景色がほとんど見えない。まさに人生の谷底にいる時にも、この先自分の人生がどういう方向に向いていくのか見えない。そこには恐れや不安がつきまとう。しかしそんな谷底にいる時にも、神が共にいてくれると言うのだ。
神が共にいるってのは聖書を貫くテーマのような気がする。旧約聖書の創世記では神がアブラハムやヤコブを祝福する時に、あなたと共にいると約束している。出エジプト記では、モーセがユダヤ人たちを率いてエジプトを脱出させるのだと神に命じられた時、モーセがわたしは何ものなのでしょう、どうして私がそんなことをしないといけないのかと言った。その時の神の返事が、わたしは必ずあなたと共にいる、このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである、なんて答えている。
新約聖書でも、マタイによる福音書によると、イエスが誕生する際に、その名はインマヌエルと呼ばれる、この名は、神は我々と共におられる、という意味である、と書かれているし、復活のイエスの最後の言葉は、私は世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる、というものだった。
人生には確かに色んな苦労があって、暗黒の谷を行くようなこともある。でもどんな時でも神は共にいてくれた、それがこの詩編の作者の告白なのだろう。
ひとりじゃない
ひとりじゃないって素敵なことね、という歌のようにひとりじゃないってのは嬉しいことだ。山で遭難した時に、そこにひとりだけでいるのと誰かと一緒にいるのとでは天と地ほどの違いがあるだろう。それこそ天国と地獄ほどの違いがあると思う。苦しい時だけではなく嬉しい時にも、そこで一緒に喜んでくれる誰かがいないとなると、それは大変悲しいことだ。
神はいつも共にいてくれるという。そしてその神は、わたしを苦しめる者を前にしても、食卓を整えてくれるというのだ。この詩編の作者はそんな経験をしてきたということだろう。
♪ひとりじゃないって素敵なことね♪という歌は恋人と一緒にいることが素敵だという歌詞だけれど、神がいつも共にいてくれているということは、それ以上に素敵なことかもしれない、きっとそうなんだろうなと思う。恋人はいつか去ってしまうかもしれないけれど、神は決して去りはしない。
こんな自分のことなんか誰も気にかけてはくれない、みんな見捨てるに違いない、そんな低い苦しい谷底にいる時にも共にいてくれるのだ。
「いつくしみ深き」という讃美歌の3番にこんな歌詞がある。
いつくしみ深き友なるイェスは
変わらぬ愛もて導きたもう
世の友われらを棄て去る時も
祈りに応えて労わりたまわん
世の友みんなから棄て去られた時、それはまるで世界でひとりぼっち、宇宙でひとりぼっちというような状況だ。しかしそんな時でさえも、私たちはひとりじゃないのだ。神が、イエス・キリストが共にいてくれているのだ。
しかもこの神は私たちを愛して止まない、大事に大事に思ってくれている神なのだ。その神が私たちといつも、どんな時でも共にいてくれているのだ。