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礼拝メッセージより
「流されない」 2013年9月15日
聖書:エステル記 1章10節-2章4節
時代
紀元前586年、エルサレムはバビロニアに滅ぼされ、ユダヤ人の多くは「捕囚」となり、バビロニア各地へ強制移住させられた。バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシャのキュロス2世は、紀元前539年に勅令を出し、ユダヤ人がイスラエルの地に帰るよう促した。
しかし補囚されてから40年以上経ち、世代も交代しバビロニアで生まれ育った人が多くなったため、実際にイスラエルの地に帰還した民は僅かであり、バビロニア地方とペルシャなどに、そのまま残留した者も多かったそうだ。外国での長い生活に慣れ、生活も安定していたために、敢えて故国に帰る必要もなかったのだろう。
ペルシャは東は今のパキスタンから西はアフリカのリビアに至るような大きな帝国だった。ペルシャの宗教はゾロアスター教であるが、他民族にゾロアスター教を強制することはせず、寛容政策をとることが多かった。ユダヤ人の中にも、エズラ・ネヘミヤ、そしてこの物語に登場するモルデカイのように、帝国内で高い地位に就く者も現れた、ともいわれているそうだ。
酒宴
エステル記に書かれているところによると、ペルシャの4代目位の王クセルクセスの第3年、紀元前480年位の出来事だった。王はペルシャの首都であるスサで180日間にわたる酒宴を開いて、国がどれほど栄えているかということを役人たちに見せつけたと書いてある。実はこれは会議、具体的には後に行われるギリシャへ遠征のための軍法会議なのではないかという話しがある。クセルクセス王の父ダレイオスの時代にギリシャへ2度遠征して敗れていた。その遺志を継いでクセルクセスもギリシャ遠征を行ったそうだ。そのための会議だったとも考えられる。日本の国会でも会期が百何十日にもなることを考えれば納得もいく。ペルシャでは大切な話しは酒を飲みながら決めるそうだ。そういうとペルシャがとてもいい加減で不謹慎に聞こえるが、日本でも本当に大事なことは国会議事堂ではなくて、料亭で飲みながら決めているのと似ていると言っている人がいたが全くその通りだなと思う。
それが終わると今度は7日間、王宮の庭園で酒宴を開いてスサに住む人を招いた。王妃ワシュティも宮殿で女のための酒宴を開いていた。こちらの方は会議の慰労会のような本当の宴会だったということなんだろう。
その宴会の七日目に、王は妻である王妃ワシュティをみんなに見せびらかそうとして召し出そうとした。どうもこの王はたいそう面食いだったらしい。そして自分の妻がどれほど美人なのかということをみんなに見せつけて自慢したかったのだろう。王妃は美しいですな、と言われたかったのだろう。
しかし何故か王妃はそれを拒んで王の命令に背いた、というところからが今日の聖書の話しになる。
面子
王は怒って側近である大臣を集めてどうすべきかと聞いた。大臣の一人メムカンという人が、この事件知れ渡ると女たちが夫を軽蔑の目で見るようになるに違いない、それは侮辱的で腹立たしいことだ、ワシュティを王妃からはずし、新しい王妃を決めるように命令を出しましょう、そうしたら女たちは夫を敬うようになるでしょうと言った。
美人で自慢の妻だったのだろうけれど、自分の命令に従わないということで、逆に憎さ百倍という気持ちになったのかもしれない。王も大臣もそれに賛成し全国に勅令を送った。
その後王の侍従たちは、王のために国中から美しいおとめを探させ、後宮に集め美しくさせた。後宮とは大奥みたいなところなんだろう。そこに集めて磨きをかけた上で気に入った娘を王妃にしたらどうでしょう、という提案をしたところ、王はそれに賛成した、というのが今日読んだところだ。
神の計画?
今日の聖書はここまでということになっていて、エステル記なのにまだエステルも登場しない。後にエステルが王妃となるわけだけれどそのための前の王妃が失脚するという舞台が整っていくという話しだ。
ここで一番すごいのはワシュティのような気がする。王の命令に従わないことでどうなるのか、当然分かっていたんじゃないかと思う。誰もが王の命令に従って、誰もが王の顔色を窺い機嫌を取るような時代だったと思う。大臣は王妃を失脚させれば、世の女性は夫を敬うようになるだろうなんて言ったけれど、それも王の意向を汲んでの発言のような気がする。
そんな中で唯一王に逆らったのがワシュティだったんだろうなと思う。ワシュティは結局失脚させられてしまうけれど、そんな絶対的な権力者のもとでただ権力者の意向や時代の流れに流されるままでいいのかどうか、そこでどう生きるのか、ということを考えさせられるのがエステル記なのかもしれないと思う。
流されない
権力を持っているものが自分の思い通りにやっていく、という構図も昔も今も変わっていないような気がする。力を持っているものが自分達の都合のいいような社会にしていっているような気がしている。
原発も、それで儲かる人達にとってはそのためにどれほど迷惑をかけることになるのかなんて大した問題ではないようだ。福島の事故の前は原発に反対することも変人のすることのような雰囲気があった。そんな時代の流れができるとそれに対して物申すことが難しくなる。今の権力者はそういう物申しにくい雰囲気を作ることがうまい。
今ではオリンピックもそれで儲かる人達ばかりが大喜びしているような気がしている。昨日のラジオでは東京都民はあまり喜んでなくて、周りの県民の方がよろこんでいるようだなんて言っていたけれど、テレビでは喜んでいる人しか登場しない。
またテレビで全然批判も反対もしないのが皇室や宮内庁のことだ。周りが持ち上げすぎて気味が悪い。民営化したらいいんじゃないかと言う人がいたけれど本当にそう思う。
今回エステル記を読んで、と言っても本当はあまり読んだことないけれど、私たちを押し流すようないろんな大きな流れのある中で、ただ流されていていいのか、ということを考えさせられている。
ただただ権力に逆らえばいいということではないのだろうけれど、そこで取り残されたり苦しめられたりしている人がいるならば、そこではやはり流されないようにしなければいけない、そこで棹さすことが必要なのだと思う。
それをしたのがイエス・キリストだったのだと思う。この世に流されないで苦しむ者や悲しむ者と共に生きた。苦しみ悲しむ私たちと共にいてくれている。そのイエス・キリストに従い、イエス・キリストが生きられたように私たちも苦しみ悩む者たちと共に生きたいと思う。