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礼拝メッセージより
「ホッと」 2013年9月8日
聖書:ルツ記 4章7-17節
気持ち
あの人のあの言葉はどういう意味なんだろうかと考える。そのことば通りの気持ちの時もあるし、本来の言葉の意味とは反対の気持ちなんてこともある。ありがとうという時でも、本心からありがたいという時もあるし、余計なことをやりやがってという時のありがとうだってある。ドラマや映画のように、その言葉が聞こえたり相手の表情が見えたりする時には、意味も分かりやすいけれど、文字になるとなかなかわかりにくい。
聖書はありがたい本なので、聖書に登場する人の言葉も、文字通りの意味に受け取らないといけないかのように思ってきたけれど、最近はそれぞれの言葉の裏に隠されているいろんな思いがあるんじゃないかと思ってきた。
ルツ記ってのはドラマを見ているみたいで、登場人物の言葉というか台詞が次々と出てくる。でもドラマと同じで実際の台詞と気持ちとは必ずしも同じではなくて、言っていることと本心とは別なんだろうなと思うところもある。本心はどうなんだろうと思いながら読んでると聖書もなかなか面白い。
一目惚れ?
モアブから帰ってきたナオミのために、一緒にモアブからやってきたルツは姑のために畑に落ち穂を拾いに行く。たまたまその畑はボアズという、ナオミの夫エリメレクの一族の人の畑だった。
ボアズはどうもルツに一目惚れしたらしい。そこでルツのために特別に便宜を図ったようだ。麦束の間で落ち穂を拾えるようにしたり、喉が渇いた時にはすぐに水を飲めるように許可をした。そして他の畑にいかなくていい、ずっとここにいるようにと言った。
ルツはどうしてそんなに親切にしてくれるのかとボアズに問うと、ボアズはしゅうとめに尽くして見知らぬ国まで来ているから、と答えている。でもそれはきっと思えて向きの返事で、本当は一目惚れをして自分の近くにいてほしいためなんだろうと思う。だからこそ他の畑に行かなくてもいいなんてのも、自分のところにいて欲しいのだろう。
ボアズはさらに、ルツに食べきれない程の食事を与えたり、わざと穂を落としておいたりした。
ルツは仕事を終えて、多くの大麦と食事の残りとを持ってナオミのもとへ帰っていった。それを見たナオミはびっくりして、一体誰がそんなに親切にしてくれたのかと聞き、それがボアズであり刈り入れが終わるまで落ち穂を拾いに来るようにと言われたことを知った。
策略
ナオミはルツの話しからルツに対してボアズが一目惚れしたことに気がついたのだろう。ボアズはナオミの亡き夫の一族であり、部族の利益を守るため財産や人を買い戻し、家を絶やさないようにする責任のある人であった。たとえば家族や近親者が、先祖伝来の土地を失ったり、あるいは奴隷の状態に陥ったというときに、その土地や身柄を一族のものが買い戻すというきまりがあった。また、夫婦に子どもがないままに夫が死んだ時には、その弟が兄の妻と結婚して子どもを産んで、兄弟の名を残さないといけない、という決まりもあった。ナオミがモアブからベツレヘムに帰る際、亡くした子どもの妻たちが付いてくると言った時にナオミが、あなたたちの夫となるような子どもを私が産めると思うのか、仮にすぐ産めたとして大きくなるまで待つのか、なんてことを言ったけれど、それもこの亡き兄弟の妻をめとらないといけないという決まりのことを言っている。もちろんボアズはナオミの子どもではないけれど、それに準ずるというようなことなんだろうか。ナオミはボアズとルツを結婚させることを狙ったらしい。
そこで機会を窺っていたんだろうと思うけれど、大麦をふるい分けるという日に、ルツに身体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に行き、ボアズが食事を済ませて酒を飲んだ後眠った後に、ボアズの衣の裾で身を覆って横になるように、と命じた。要するに夜這いをしたということだ。
しかしボアズは、自分以上に家を絶やさないようにする責任のある人がいる、しかし明日までになんとかすると言って、ナオミへということで多くの大麦を持たせてルツを暗いうちに帰した。それほどボアズはルツを気に入っていたのだろう。
ルツからことの次第を聞いたナオミの言葉がまたふるっている。「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう』(ルツ記3:18)。しめしめ計画どおりだ、と言っているようだ。
ボアズは自分以上に責任のある親戚の人と町の長老から10人を集めて、その親戚に向かって、ナオミが亡き夫エリメレクの土地を売ろうとしていて、あなたにその責任がある、と言った。その人はならば自分が買うと言うが、続けてボアズが、土地を買うならルツも引き取らないといけない、と言うと親戚は、そこまではできない、あなたが責任を負ってくれとボアズに答えた。ボアズはルツも引き取るという条件をつければ親戚がいやがるだろうということを最初から承知していたのだろう。
そこからが今日の聖書の箇所だ。ボアズは証人のいる中で、その責任を自分が取りルツも引き取るということを宣言し、晴れてルツと正式に結婚することができた。
ボアズに夜這いをかけるというナオミの策略は見事に的中したわけだ。そしてルツは男の子を産んだ。そこで女たちはナオミに声をかけたとあり、ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた、そして近所の婦人達はナオミに子どもが生まれたといったと書いてある。その時生まれた子はオベドど名付けられてダビデの祖父となった、と書かれている。
どこ行った?
ここにきてルツは一体どこに行ったのだろうか。ボアズと結婚し子どもが生まれるまではいたのに、生まれた途端ルツは消えてしまった。ついでにボアズも消えてしまった。ナオミだけが残っていて、ナオミが子どもを生んだかのように書かれている。亡くした兄の妻と結婚するのは、亡くなった兄の名を残すためということなので、ナオミの家を継ぐ子が産まれたのでナオミの子と言ってもいいのかもしれないけれど、それにしても子どもが産まれた途端ルツはもう用なしになったかのようで不思議な気持ちだ。ルツのその後も気になる。ボアズと幸せに暮らしたのだろうか。
たまたま?
これは偶然なのか必然なのか、なんて話しをよく聞く。ルツがボアズの畑で落ち穂を拾ったのは偶々なのか、それとも神の計画だったのか。たまたまかもしれないし、神の計画なのかもしれない。どちらにしても誰もを納得させる証拠はないだろう。偶然か必然か、それは自分自身が決めることのような気がする。たまたまだと思う人にとってはたまたまだし、必然と思う人にとっては必然なんだろうと思う。神の計画だと思う人にとっては神の計画なんだろう。
相田みつをさんの言葉に、しあわせはいつも自分の心が決める、というようなのがある。何がどうあったら幸せなのか、幸せの条件はなんだろうかと考えていた時に、結局自分が幸せと思う時が幸せなんだろうと思った。そうしたら同じようなことを言っている人がいて、それが相田みつをさんだった。
しあわせと同じで、偶然か必然か、それも結局自分が決めることなんじゃないかと思う。だから、これは偶然なんかじゃない必然なんだ、神の計画なんだ、と押しつけることもできないし、そんなことをしても仕方ない。
偶然だとしたら、それは宇宙に独りぼっちで浮いていてどこにいくのか風任せみたいな感じだと思うけれど、神の計画なのだとしたら、神が自分のことを見ているわけで、決して独りぼっちではないわけだ。神の計画だと思えるということは一人じゃないってことだ。
ホッと
もちろん人は自分一人で生きているわけではなくいろんな人と一緒に生きていくわけだけれど、自分の心の中にいられるのは自分自身とあとは神だけじゃないかと思う。神の計画の中に生かされているということは、心の中に神を迎え入れて、その神と共に生きるということなんじゃないかと思う。
心の中はひとりぼっちで、何事も偶然だと思って生きるのか、心に神を迎え入れて神と共に、神の計画の中に生きるのか、どっちを選ぶのかそれは私たち自身が決めることなんじゃないかと思う。
イエス・キリストは、いつもあなたと共にいる、なんて言ったけれど、もうすでにイエス・キリストは私たちの心の中に一緒にいてくれているのだろう。もういるんだぞ、一緒に生きているんだぞと言ってくれているような気がしている。なんだか嬉しくホッとしている。