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礼拝メッセージより
「分からない」 2013年9月1日
聖書:ルツ記 1章16節-2章3節
時代
時代は士師が世を治めていたころ、ということになっている。旧約聖書に士師記というのがあるが、イスラエルに王が立てられて王国となる少し前ということだ。
そのころイスラエルに飢饉があったため、12部族の一つエフラタ族であったエリメレクとナオミ夫妻とマフロンとキルヨンの二人の息子は、はベツレヘムから死海の対岸にあるモアブの野に移住した。距離としては50km前後だろうか。
息子たちはそれぞれ、オルパとルツというモアブの女を妻とした。
モアブ
モアブは古代イスラエルの東に隣接した地域の古代の地名であり、死海の東岸の高原地帯に広がる地域を指す。旧約聖書の創世記ではソドムとゴモラが神から滅ぼされた際に、アブラハムの甥ロトは逃げ出し山中の洞窟に移住したが、ここで娘たちは父を酔わせ近親相姦し、父によって男子を1人ずつ生んだ。長女の息子は「モアブ(父親より)」と名付けられモアブ人の祖となり、また、次女の息子は「ベン・アミ(私の肉親の子)」と名付けられ後にアンモンの人々の祖となったとされている。民数記や士師記などでも、イスラエルとモアブは何度も戦っている。
そういう風にモアブ人は、イスラエル人と血縁関係にあるが、性的に乱れた邪悪な隣国人として度々聖書に登場している。「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない」(申命記23:4)とモアブ人とアンモン人とを「神の会衆」から排除しており、モアブが不適当な性行為と関連していることを強調している。おそらくイスラエルのカナン侵攻に対する正当性と、本来同じ民族系統だった周辺民族からの優位性をを主張するために、こうした神話が創られたのだろう。しかしルツ記ではモアブに対してそういった視点は見られない。
不幸
そのモアブでナオミの夫エリメレクが死に、その後二人の息子マフロンとキルヨンも死ぬ。
ナオミはイスラエルの飢饉が終わったことを聞いたので故郷に帰ることにする。二人の嫁たちもナオミに付いていく。しかしナオミはモアブに残って新たに嫁ぎ先を見つけるようにと言う。オルパはナオミの言葉に従い帰っていったが、ルツはどうしてもナオミに付いていくと言って譲らない。そのルツの言葉が今日の聖書の最初の言葉だ。
ナオミは説得を諦めてルツと一緒にベツレヘムへ帰っていった。
ナオミとルツの帰郷に対して、町の人達は二人のことでどよめいたと書かれている。町を離れてから何年たっていたのだろうか。ナオミさんではありませんか、と言われるほど変わっていたということなのだろう。ナオミは、全能者がわたしをひどい目に遭わせた、出て行く時は満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせた、主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされた、と言っている。歳を取ったということもあるのだろうけれど、不幸な目にあったためにやつれてしまって、以前のナオミは見る影もない、というような姿だったのだろう。
落ち穂拾い
ベツレヘムへ帰ってきたのが大麦の刈り入れの始まるころであったということで、ルツは畑に行って落ち穂を拾わせてもらうことにした。刈り入れをする時には貧しい人達のために全部刈らずに残しておかないといけない、なんてことが聖書の中にも書いてあるように、落ち穂を拾うというのは貧しい人達の権利でもあると考えられていたようだ。そこでルツもその落ち穂を拾いに行ったわけだけれど、ルツの行った畑はボアズというナオミの夫エリメレクの一族の畑だった。
分からない
ルツはマタイによる福音書の最初にあるイエス・キリストの系図にも登場する。「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベデを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。」(マタイ1:5-6)異邦人である、しかもユダヤ人と度々戦ってきた、そして性的に乱れているといわば軽蔑していたようなモアブ人を通してダビデ王が生まれたわけだ。
人生どこでどうなるか分からない、と言えば全くその通りだ。不幸だ不幸だと思っていたことが、何かのきっかけで急に好転することもある。好転すればこれは神の計画だったんだ、なんて思うけれど、好転する兆しもない時にはこれも神の計画だなんて思えない。不幸になることが神の計画だなんて言われたらやってられない。
神さまが計画を教えてくれたなら、多生の苦しいことも我慢できるのにと思う。でもそうはいかないから苦しい時には大変だ。ナオミも、神がわたしを酷い目に遭わせたのだ、わたしを悩ませ、わたしを不幸に落とされた、と言っている。苦しいことを体験し、悩むことで初めて見えてくるものもあるとは思うけれど、でもそんな苦しみも神の計画だと言われると冗談じゃないと思う。
しかし不幸から救ってくれることだけが神の計画なのかどうか、それまでの不幸は計画外のことなのか、どこからどこまでが神の計画なのか、そんなことはわからない。
全部神の計画なのか、どこからどこまでが神の計画なのか、世の中神の計画通りに進んでいくのか、分からないことばかりだ。
ではそんな分からない神の計画など、神のことになど頼ることはできないのだろうか。
私たちは親の手をひかれてどこかへ向かって歩いている子どものようなものなのではないかと思う。歩きにくい所を進む時もある。どこに向かって歩いているのか分からない。でも親を信頼していれば、どこに向かっているかを知らなくても心配はない。
神を信じるとは、その神と一緒に歩いて行っているということを信じるということなのではないかと思う。私たちは行き先は知らない。どんな道を通るのかも分からない。もし一人だけで歩いていかないといけないとしたら、不安と心配でいっぱいになってしまうだろう。しかし神と一緒に歩いているならば、不安は随分小さくなる。
神が共に歩んでくれていると信じるか、信じないか、その差は大きい。神がいる証拠を見ることもできない。まさに信じるしかない。しかし信じることで私たちの生き方はきっと変わってくる。神を信じて生きてきた人たちの証言が聖書なのだと思う。
神のことはわからないことばかりだ。でも神を信じることはとてもいいことであり、また信じることは私たちの力になり支えになるのだ、と聖書は語っているように思う。