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礼拝メッセージより
「自己を断ち切る」 2013年8月25日
聖書:ダニエル書 6章1-25節
舞台
時代はバビロニアからメディアへと変わり、ダレイオスという人が王となっている。実際にはバビロニアが滅びた時にはすでにメディアは滅ぼされていたそうで、メディアにはダレイオスという王はいなかったそうで、実在の人物ではないらしい。
それは兎に角今日の物語にもダニエルが登場する。バビロニアでは夢を解く能力を持つことで重用されていたダニエルだったが、今日の所では役人としての能力を持っていて、大臣となっている。政務に忠実であったということで、王に次ぐ国のナンバー2のようになっている。夢を解いたり大臣になったり、創世記に出てくるヨセフに似ている。
しかし他の役人たちがそれを妬んだのだろう、ダニエルを陥れるために策略を練る。そして向こう30日間、他の人間や神に願い事をする者を獅子の洞窟に投げ込む、という禁令を出させることに成功する。
ダニエルはその禁令のことを知りつつ、いつものように日に三度エルサレムの方へ向かって祈り讃美していた。役人たちはダニエルを捕まえて、禁令を破ったからライオンの洞窟へ投げ込むように王に進言する。
王はダニエルを助けようとするけれども、一度出した命令は変更できないということで、お前の拝む神が守ってくれるように、と言いつつライオンの洞窟に投げ込む。王は心配しながら一晩過ごし、夜明けと共に洞窟に行くが、ダニエルは無事であって、神がライオンの口を閉ざしたから大丈夫だった、自分は無実なのだ、王に背いたこともないと言ったという話しだ。
ロボット?
命の危険が迫っても、ダニエルのような信仰があれば大丈夫、神が必ず守ってくれるのだ、どんな危機に直面した時でもダニエルのようにいつものように神に祈り讃美していきましょう、というような話しなのだろうか。ダニエルはこんなに立派な信仰者だったのだ、私たちもダニエルのように素直に信じましょう、ということなんだろうか。そんな風な説教が多いみたいだけれど。
でも何があっても淡々といつものように過ごすなんてあり得るのだろうか。自分の身に命の危険が迫っても全くうろたえることもない、なんて人間いるんだろうか。そんなこと思っていると、なんだかダニエルはロボットみたいだなと思ってきた。感情がないロボットのような気がしてきた。
迫害
このダニエル書がまとめられたのは、紀元前2世紀ごろで、当時ユダヤ地方は、セレウコス王朝に支配されている時代だったそうだ。そのセレウコス王朝のアンティオコス四世は、エジプト遠征の戦費をまかなうために、エルサレム神殿の財宝を略奪し、律法の書を焼かせ、安息日や割礼などの律法に従うことを禁止し、エルサレム神殿や国内の各地にギリシアの神ゼウスの像を置いて礼拝することを強制し、ヤハウェを礼拝することを禁止したそうだ。そして偶像礼拝を拒否して、ヤハウェを礼拝することを固守した者たちは殺されてしまった。そんな時代だった。
経緯は違っても今日のダニエル書に書かれていることと同じように、自分の神に祈ることを禁止されている時代だったわけだ。
ダニエル書ではダニエルは禁令に背いてもライオンに食べられることはなかった。しかし紀元前2世紀の現実では自分達の神に祈ったために処刑されてしまっているわけだ。その当時の人達はこのダニエル書をどんな気持ちで読んだのだろうか。ダニエル書を読んでどう思ったのだろうか。
そう思うと神に信頼していれば守られるのだ、なんて簡単には言えない。というか全然言えないと思う。
苦しみ
先日電話で、教会に行って祈ってもらえば肩が上がるようになるでしょうか、という話しをした。教会に行けばそういうことがあるのではないかという話しを聞いたと言っていた。でもうちの教会ではそういうことはないでしょう、僕にはそんな力もないし、私たちの信仰は治らないところで生きていくための信仰だとかそんな話しをした。
祈れば治りますと言えたらいいのになとか、治るかもしれませんよとか、祈ったら治ったという話しを聞いたこともあります、と言った方が良かったかなと思ったりもした。
そう思いつつ、昔読んだ話を思い出していた。ある人が目が見えなくなってだったか耳が聞こえなくなってだったか忘れたけれど、そうやって身体が不自由になったことでいろんな宗教に行ったそうだ。だいたいどこでも祈れば治るとか信じれば治ると言われたそうだ。その後あるキリスト教会へ行き治るかと聞いたところ、そこでは治らないと言われた。そしてその人はここは本物だと思ってそれからその教会へ通うようになったという話しだった。
どう言ったら来てくれるかな、なんてせこいことばかり考えてしまうけれど、私たちの信仰は、やっぱり祈れば治る、信じれば助かる、というような単純なことではないと思う。治らないのは祈りや信仰が足りないから、と言うのはすごく明快でわかりやすいけれど、人生はそんなに単純ではないし、神を信じることだってそんなに明快ではないだろう。
断ち切る
祈る事が苦手だ。牧師に祈って貰えば、なんてことも言われるけれど、すごく苦手だ。祈ればそれが叶うならば、祈ればいやされるならばいくらでも祈れるし、祈ってあげたいと思う。でもそうとは限らない、逆になかなか願った通りにはならない。
ある祈りの本の中にこんな言葉があった。
「自己を断ち切る祈りは、願いを断たれた死の灰燼から飛び立つ神の不死鳥となる。」(「祈り」奥村一郎 女子パウロ会)
祈りってなんなんだろうとずっと思っている。叶えられないのに祈るのだろうか。祈らないといけないのだろうか。
叶うとか叶わないということに捕らわれてしまっていることで、祈れなくなっているのかもしれないと思った。叶うとか叶わないとかいうことを超えたものを見つめることが祈りなのかなと、その祈りの本を読みながら思った。
叶う叶わないということも含めて、そんな自分をすべて神に預ける事が祈りなのかもしれないと思う。自己を断ち切る、というのは全部神に持って行くことではないかと思っている。
迫害の中で人々はどんな気持ちでダニエル書を読んだんだろうか。そうやって守られれば苦労しないよ、現実はそんなに甘くないと思ったんじゃないだろうか。そう思いつつ、でもやっぱり神はそんな苦しみや不条理をひっくるめてすべてを支配しているんだ、そんなことを思ったのかな、なんて想像している。