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礼拝メッセージより
「大肯定」 2013年8月18日 (松江教会でのメッセージ)
聖書:マルコによる福音書 14章3-9節
無駄遣い?
今日の聖書はイエスが重い皮膚病の人シモンの家で食卓に着いていたときの話だ。その時、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
ナルドというのは、ヒマラヤ山脈原産のナルドという植物の根から取った、非常に高価な芳ばしい香料、だそうだ。その後の話からするとその香油は300デナリオン以上に売れるものだったらしい。1デナリオンが一日の賃金だから、1日の給料を1万円としても300万円もするようなものだった。その香油をこの人はイエスの頭にかけてしまった。壺を壊してかけた。壺を壊さなければ、少しかけて残りを持って帰ることもできたのに、壊したということはもう残すつもりがなかったということだろう。
そこにいた人の何人かが憤慨してとがめた、と書かれている。300万円を使ってしまった、勿体ないということだろう。貧しい人々に施すことができたのに、というのはとってつけた理由で、本心はそんなことをするなら自分に分けてくれればというような気持ちだったんじゃないかと思う。
記念
イエスは「するままにさせておきなさい」と言われる。さらに「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」とまで言われる。このことは良いことだと言うのだ。周りのものが厳しくしかっていることに対して、いかにも無駄使いと思えるようなことに対して、イエスはこれは良いことだと言われる。さらに、世界中どこでも、福音がのべ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう、とまで言われた。
イエスはこの女性の行為を絶賛したわけだ。
良いこと
でも、壺を壊して高価な香油を頭からかける行為がどうしてそんなに素晴らしい行為なのか、昔からずっとわからなかった。
高価なものをもささげるという行為がすばらしかったのか。それとも後でイエスが言うように、埋葬の準備をしてくれたからすばらしかったのか、そこまで先見の明があることが素晴らしかったのか。でもたとえ埋葬の準備だとしても、生きている内にそんなことをするのは失礼な話しだと思う。
兎に角、この女の人はすばらしい信仰心を持って冷静に淡々とイエスに香油をかけたと思っていた。でもこのごろそうじゃないような気がしてきている。
かつては、イエスはこの女の人の行為にはこんな意味があるんだ、こんなにすぐれた行為なんだ、と気付かせようとしているんだと思っていた。でもイエスが言っていることをなかなか納得できなかった。昔説教した後の分かち合いで話しをしていた時に、これは誰もが納得できるようないわゆる良いこと、優れた行為ではなかったんじゃないかと思うようになった。
絶望
そもそもなぜこの女の人はこんなことをしたのだろうか。
ここからは推測になるけれども、この香油は大事に大事にとっていた高価な香油だったのではないかと思う。いざというときにはその香油を処分して金に換えるためにとっていたのかもしれない。唯一の財産というようなものだったんじゃないかという気がする。
しかしその香油を全部使ってしまった。壺を壊してイエスにかけたわけだから、全部をかける、残しておくつもりはなかった、ということだろう。
彼女は勿体ないとか、財産を残しておくとか、もうそんなものはどうでも良くなったのではないかと思う。この世のことはどうでも良くなっていた、つまりこの世に絶望していたのではないかと思う。だからこの世で生きるためにとっておいた香油も使ってしまったのではないか。この世に絶望して、イエスのもとに倒れ込んでいったんじゃないかと思う。
だから、この女の人は冷静に埋葬の準備をしたのではなくて、なぜイエスにそんなことをしたのか、この女の人自身にもよくわかっていなかったんじゃないかと思う。つまり、彼女には絶望しかなかったんじゃないかと思う。そして絶望した彼女の心に思い浮かんだのがイエスだったのではないかと思う。イエスがどうかしてくれるとか、助けてくれるとか、そんなことさえも考えてもなかったんじゃないかという気がする。
イエスは良いことをしてくれたと言ったけれど、どこがどう良いのかずっと分からなかった。よく分からないけれどこの女の人の行為は、イエスの埋葬の準備のために高価な香油をかけるという信仰心をもったすばらしい行為だと思うことにしていた。ネットを見ても、この女性のような立派な信仰心を持ちましょうとか、自分の持っている大事なものを献げましょう、というような説教も多い。
大肯定
女の人の行為は、なりふり構わずやったしまった行為だったんじゃないかと。香油がいくらなのかなんてことはもうどうでもよくて、その後どう生きていくのかなんてことももう考えられないような、そんなぼろぼろになって行った滅茶苦茶な行為だったんじゃないかという気がしてきた。
つまり香油を頭にかけるというこの行為は、本当は「良いこと」とはとても言えないような滅茶苦茶な行為だったんじゃないかと思った。
そこにいた何人かが、この女の人の行為を無駄遣いだ、と憤慨したと書かれているが、まさにその通りの行為だったんじゃないかと思う。
客観的に見ればただの無駄遣い、勿体ない行為、何の意味もないような行為だったんじゃないかと思った。何をやっているんだと叱られても仕方ないというか、叱られて当然の行為だったんだろうと思う。良いことなんて何も含まれていない行為だったんじゃないかと思った。
なのに
なのに、そんな行為をイエスは、それを良いことだ、と言ったんじゃないかと思った。そうだとすると、このイエスの発言はものすごいことだな思う。
誰もが非難するしかないような行為だったわけだ。誰もが勿体ないとしか思えない行為だった。けれどイエスはその行いを全面的に受け止めたということなんじゃないかと思う。自分に倒れかかってきた人、その人自身を、その人のすべてをイエスは全面的に受け止め、肯定したということなんじゃないかと思う。つまり大肯定。そんな言葉辞書にはないでしょう。勝手に作りました。と思っていたらネットにはありました。
そうだとすると、イエスの言葉を聞いて一番びっくりしたのはこの女の人だったんじゃないかと思う。自分の滅茶苦茶な行為を非難するのではなく、反対に全面的に受け止めてくれて、それに意味を見つけ出してくれて誉めてくれたわけだ。
良いこと
自分を全面的に受け止めてくれ、自分のした滅茶苦茶な行為に意味を与えたもらったのだと思う。多分この女の人はこのイエスの言葉に支えられて生きていったんじゃないかと想像する。
こんな人生もうどうでもいい、もうどうしていいか分からない、どうにでもなれという思いをイエスにぶつける滅茶苦茶な行為だったんじゃないかと思う。でもイエスはそんな無茶苦茶な行為に対して、わたしに良いことをしてくれたと言ってくれたんだろうと思う。
自分のことを自分で嫌い、こんな自分では駄目だと自分で自分を責めている。そうやって自分を否定することが多い。
うまくいかないこと、思い通りにならないことが重なると、絶望感にさいなまれて自暴自棄になって、訳のわからないようなことをしてしまう私たちだ。でもそんな私たちをイエスは受け止めてくれる。そんな私たちをも全面的に肯定してくれている、今日の聖書はそのことを伝えているのではないか。
イエスってすごいな、と思うようになった。