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礼拝メッセージより
「生きよ」 2013年7月14日
聖書:エゼキエル書 18章1-4、30-32節
テレフォン人生相談
「生きるのが辛いのは、あなたの所為ではありません」と言っていた。今日の聖書では、お前のせいだ、と言われているみたいだけど、一体どっちなんだろう。
歯が浮く
ユダの国はバビロンに滅ぼされてしまった。神殿は破壊されてエルサレムは城壁も崩され、指導者たちの多くがバビロンへ補囚されてしまっている。
一体どうしてこんなことになってしまったのか、ということを誰もが考えたのだろう。その当時流行っていたというか、よく聞かれたことわざが、『先祖が酸いぶどうを食べれば 子孫の歯が浮く。』ということだったらしい。先祖がまずいぶどうを食べれば、子孫がまずい思いをするということだろうか。つまり先祖が悪いことをしたら子孫がつらい思いをするということらしい。
国が滅びみんなが辛い思いをしているのは、結局は神に見捨てられてしまっているからで、そうなったのは先祖が悪いことをしたからなのだ、その罰として自分たちは神との関係を持てなくなってしまっている、そのせいでこんな酷い目に遭っているんだ、ということなんだろう。親の因果が子に報い、なんて言葉があるけれど、そんな気持ちでいたのだろう。
しかし主は、そのことわざを二度と口にすることはないという。先祖の罪のゆえに自分達が罰を受けることはない、と言っている。神の命令に従わない者は死ぬ、従う者は生きる、子孫がそうなるのではなく、その本人がそうなると言っている。具体的はことが5節以下に出てくる。ある人が神の掟にことごとく逆らって死ぬ、しかしその息子が神に従うならばその息子は生きる、と言う。
生きるとか死ぬとか激しい言葉を使っているけれど、神との関係を持つか持たないかということなんだろうと思う。
主は20節で、「正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。」と言っている。
正しいとか悪とかいうのは、結局は神の言葉に従うか従わないか、ということなのだろうから、自分が神との関係を持つかどうかは先祖とは関係ないということになる。
誰の所為?
人に所為にすると幾分気が楽になるような気がする。悪いことは全部自分の所為なんだ、とすべての責任を自分が背負い込むのはとんでもなく辛いことだ。本気でそう思ったら生きていけないんじゃないかと思う。
生きづらさというようなことは、人生相談の人が言うように自分の所為ではないのだろう。親からどう育てられたか、どういうことを言われて育ってきたか、そんな自分の所為ではない重荷を背負わされてもいる。
しかしそんな私たちが、それはもう神に見捨てられてしまっているからだ、もう神は自分のことなど知らん顔だ、先祖も神に逆らってきたのだからその罰なのだ、と思っているとしたら、そうではないと言われている。
どうせ先祖の罪なんだから仕方ない、と諦めている人に対して、先祖は先祖、お前たちはお前たちなのだ、先祖がどうあろうと私はお前たちを見ている、バビロン捕囚という境遇を先祖の所為だと諦めてはいけない、私はお前たちを見ている、神はそう言われているようにも思う。
立ち帰る
神に見捨てられているのも先祖のせいだと言われると、もうどうしようもない。今さら先祖の罪を消すこともできないし、先祖の行動を改める訳にもいかない。過去は変えようがない。
しかし自分の所為だと言われたら、それは今から変えることが出来る。修正することができる。
帰れ
主なる神は、お前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と言いつつ、罪がお前たちをつまずかせないように、悔い改めてお前たちのすべての背きから立ち帰れ、お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか、という。
今日の話しは、お前たちはなんでもかんでも先祖の所為にするんじゃない、自分のことをよく考えろ、と戒めているのかとずっと思っていた。
でもそれよりも、諦めるなと言われているような気がしてきた。苦しい境遇にあって、それは先祖代々の罪の結果なんだから仕方ない、もう自分達のことを神が省みてくれるなんてことはないだろう、と諦めている人に向かっての言葉のような気がしてきた。
先祖が従わなかったからこうなってのではない、従わなかったから見捨ててしまっているわけでもない、私はお前たちのことを見ている、お前たちのことを心配している、お前たちが私の元へ帰ってくることを待っている、諦めることはない、今から私の元へ帰ってきなさい、私の声を聞きなさい、私に従いなさい、あなたとの関係を持ちたいのだ、私との関係をもつことが生きることなのだ、神はそう言われているように思う。
大変な境遇に会うと私たちも諦めてしまいそうになる。こんな自分はもう駄目なのだ、こんな自分を神は省みてはくれないに違いないと思う。しかし神は、私は諦めない、あなたは私の所へ帰ってきなさい、そして生きなさい、そう言われているのではないか。