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礼拝メッセージより
「付いてきなさい」 2013年7月21日
聖書:エゼキエル書 34章1-16節
自分自身を養う
ユダの国はバビロニアによって滅ぼされ、国の指導者たちはバビロンへ補囚されていった。
ここで言う「人の子」はエゼキエル、「牧者」はイスラエルやユダの王や支配者たちのことだそうだ。祭司なども含まれているのかもしれない。
神は言う、牧者は家畜の世話をする人であり群れを養うべき人である。しかし彼らは、3節にあるように、自分自身を養い、自分が乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとしない、と言われている。
4節はその群れを養わないということの説明なのだろう、弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらず、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した、と言われている。
そのため群れは、飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない、と神は言う。
そこで主なる神は、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする、彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く、わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と言う。
バビロン捕囚
南ユダ王国はヨヤキン王の時代にバビロニアとの戦いに敗れて、ヨヤキン王と指導者たちがバビロンへ捕囚された。これが第一次バビロン捕囚だ。
バビロニアはユダを属国としてゼデキヤを王として擁立した。ユダでは外国の支配を神の裁きとして甘んじて受け入れるべきという勢力と、バビロニアに反抗して独立すべきと言う勢力が対立していた。
結局ユダはエジプトに援助を求めてバビロニアに反乱を起こす。そのためもう一度バビロニアに攻められ、ゼデキヤ王は目をえぐられて、指導者たちと共にバビロンに補囚された。これが第二次バビロン捕囚と呼ばれるものだ。
サウルやダビデから続いてきた王国がここで終わることとなった。旧約聖書では、ダビデを賞賛することが書かれているところもあるが、民が王を求めて神がしぶしぶそれを認めたようなことが書かれている箇所もある。優れた王の時はいいけれど、優れた王の方が少なかったようだ。
王は基本的に子どもが引き継いできたようだが、結局は権力を持つとそれを離したくない、という欲求がどうしても出てくるのではないかという気がする。既得権益をなくしたくないという思いが強くなってくるのではないかと思う。
既得権益
少し前に、原発を再稼働するために電力会社の社長が県知事に了解を求めて行ったけれど断られたというようなニュースをしていた。そのニュースを見ながら、この社長の後ろには色んな人がいるんだろうなと思った。電力会社の従業員を始め、原発関係の電気会社の人達、原発が止まったことで交付金が貰えない町の人達や、その町の旅館や食堂の経営者の人達、そんな色んな人達が電力会社の社長の後ろにはいるんだろうなと思った。早く再稼働してくれないと俺たちの生活が困る、今までのような生活ができないという人達が大勢いるんだろうなと思った。
だからと言って、それ以上に多くの人達の安全とか、処理の方法もない廃棄物のことに知らん顔をして、兎に角動かせというのはとんでもない話しだと思う。結局は自分自身を養っているということのような気がしている。自分達の既得権益を守るために周りの人のことはほったらかしになっているんじゃないのかなと思う。そういう時は自分のことしか見えていなくて、周りの人のことはまるで見えていないような気がする。
そうやって人のこととしてこういう話しをしている時には偉そうなことを言えるし、人の文句を言うのは楽しいけれど、実際自分の身に降りかかってきた時にはなかなかそうも言えないような気もする。原発が止まることで自分の仕事がなくなるとなると、止めろとはなかなか言いにくいだろうなと思う。
付いてこい
主なる神は、王や指導者たちにはもう牧者を任せるわけにはいかない、自分自身が牧者となる、と言われているようだ。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」と言われている。
この主なる神の言葉はイエス・キリストの生き様そのままだと思う。イエス・キリストは弱く小さい人や差別されている人や苦しめられている人、自分には何の価値もないと思って嘆いている諦めている、そんな人達の所へ出かけていき、そんな人達と共に生きてきた。
神の意志と言うのは旧約時代から一貫しているのだろう。つまり自分だけのことではなく周りの者たちのことを考えること、特に弱く小さい者たちのことを配慮すること、それはイエス・キリストが来るずっと前から神が繰り返し告げてきたことだ。
王や指導者たちはそんな牧者とならなかった、しかしこれからは私自身が牧者となる、私自身が弱く小さい者たちのところへ行く、だからあなたたちは私に付いてきなさい、と言われているような気がしている。
イエス・キリストも、私に従いなさい、と言っていた。イエス・キリストに従うと言うことは、弱く小さな者たち、差別され苦しめられている人達のところへ出て行く、そのイエス・キリストに付いていくことだろう。そういう人達のことを大切にしなさい、そんな人達と共に生きなさい、そう言われているのだろう。
「富は自由のための道具であるが、
富の追求は奴隷への道である。」
(フランク・ハーバート/アメリカのSF作家)
自分の既得権益を守ることや自分のお金を貯めることばかりについつい目を奪われてしまう。そればっかり心配してるなんてことも多い。でもそれはとても不自由な生き方で、奴隷への道を進んでいるのかもしれないと思う。
あなたたちはイエス・キリストに従っていきなさい、弱く小さい者たちを大切にしなさい、苦しみ嘆いている人たちと共に生きなさい、あなたたちのことは私が牧者なのだから私が守る、あなたたちは私が支える、だから心配しないでイエス・キリストに付いていきなさい、神は私たちにそう言われているのではないだろうか。