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礼拝メッセージより
「食べると甘い」 2013年7月7日
聖書:エゼキエル書 2章1節-3章3節
エゼキエル
紀元前597年に第一次バビロン捕囚があり、南ユダ王国のヨヤキン王がバビロンに連行された。その時神殿の祭司をしていたエゼキエルも王と共にバビロンへ補囚されていた。エゼキエルはその補囚されていたバビロンで預言者として神の言葉を民に告げるようにという召命を受けた。
1章を見るとそれは第30年で、ヨヤキン王が補囚となって5年目のことだと書かれている。第30年というのはエゼキエルが30才の時のことらしくい。バビロンへ連れてこられて5年目ということになる。
補囚民
補囚民たちは勿論早く故郷のユダに帰りたかっただろう。そのためにバビロンに素直に従うことで早く帰還しようと考える人もいたようだが、中にはエルサレムに残された者たちと連携してバビロンから独立を勝ちとろうという強硬派もいたようで、エルサレムに残っている者たちの動きも気になっていただろう。そして何年も補囚されて帰る見込みも立たないでいると、自分達の土地がどうなるのかということや、自分達がいない間に新しい社会が出来上がってしまって、自分達がよそ者のようになってしまうような、見捨てられてしまうのではないかというような不安も芽生えてきていたらしい。
召命
そんな時にエゼキエルは補囚の地で神の召命を受ける。1章ではエゼキエルの前に神の栄光が現れ、その様子が詳しく書かれている。大いなる雲が光を放ち、その中には4つの生き物がいて、それぞれ4つの顔と翼があった、なんてことが実に詳しく書かれている。要するに神の栄光の玉座に乗って神がエゼキエルの前に現れたということのようだ。
その神の語った言葉が2章からのところになる。神はエゼキエルに自分の言葉をイスラエルの人々に告げるようにと言う。しかしイスラエルの人々は反逆の民であり、恥知らずで強情な人々、と言われている。彼らが聞き入れようと拒もうと、神の言葉を語りなさい、彼らを恐れてはならない、なんて言っている。
そして巻物を手渡され、そこには表にも裏にも、哀歌と呻きと嘆きの言葉があった。そしてそれを食べてイスラエルの家に語れと言われ、エゼキエルが口を開いてそれを食べると、それは蜜のように甘かった、というのだ。
哀歌と呻きと嘆き
巻物に書かれていた哀歌と呻きと嘆きとは誰にとっての哀歌であり呻きであり嘆きなんだろうか。そう思っていろいろ調べてもどこにも書いていなかった。当たり前のことで書く必要もないようなことなんだろうか。
最初はなんとなくイスラエルの民の呻きや嘆きなのかと思っていたけれど、どうも違う気がしてきた。
神から手渡されたということならばそこには神の言葉が書かれているんじゃないかなと思う。もしかしてそこには神自身の呻きと嘆きが書かれていたということなんじゃないかと思ったりしている。
イスラエルの民に一所懸命に語りかけるのに従わない、熱い思いを持っているのに応えてくれない、大事に思っているのに聞いてくれない、と言う神自身の悲しみや呻きや嘆きが実はそこに書かれていたのかもしれない、なんて思った。
そんな神の熱い思いを食べるとそれは蜜のように口に甘かったということなんじゃないかと思う。
エゼキエルが民に告げる言葉は、民にとっては厳しい言葉となることは神が予告している。反逆の民であると言われているように一筋縄ではいかないらしい。あざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされるような思いになる、そんな言葉を伝えないといけないのだろう。しかし神はただ民を懲らしめるために言葉を伝えるわけではないのだろうと思う。厳しい言葉の背後には神の熱い思い、民を大事に思うその思いがあるのだろう。だからそのことをまずエゼキエルに伝えたのではないかという気がしてきた。
厳しい将来が待っていることを告げるけれども、しかしそれは決して神が見捨てたのではないということ、国は滅びるけれども、それはやがてまた再生するために滅びるのだということ、そんな神の計画があるのだということ、そしてそれは神の熱い思いからそうしているのだということ、そのことをエゼキエルにまず伝えたのではないかと思う。
そんな熱い思いのこもった神自身の哀歌であり呻きであり嘆きだったのではないかと思ってきた。だからこそそれを食べると蜜のように口に甘いものだったのではないかと思った。
神は私たちにも同じ思いを持っているのだと思う。私たちも自分の子どもが苦しんだり悩んだり痛い思いをしている時には、自分も同じように苦しい。
神も私たちが一人で彷徨い苦しんでいる様を見て、神さま自身も悲しく呻き嘆いているのではないかと思う。私の声を聞いてほしい、私の元に帰ってほしい、何とかして助けたい、励ましたい、そんな熱い思いを持っているのだろうと思う。
神は、是非その思いを知ってほしい、その思いをしっかりと味わって欲しい、私たちにもそう言われているのではないか。それはきっと私たちにとってもとても甘く、また元気づけるものなのではないかと思う。