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礼拝メッセージより
「壊されないもの」 2013年6月30日
聖書:エレミヤ書 33章10-16節
時
バビロンの脅威にさらされるようになった南ユダ王国だったが、紀元前597年バビロン軍はエルサレムにやってきて、多くの人々をバビロンへ連れて行った。
列王記下には、24章14節以下には、「エルサレムのすべての人々、すなわちすべての高官とすべての勇士一万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去り、残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった。彼はヨヤキンを捕囚としてバビロンに連れ去り、その王の母、王妃たち、宦官たち、国の有力者たちも、捕囚としてエルサレムからバビロンに行かせた。バビロンの王はすべての軍人七千人、職人と鍛冶千人、勇敢な戦士全員を、捕囚としてバビロンに連れて行った。」と書かれている。
第1回バビロン捕囚と言われるものだ。しかしこの時にはエルサレムの町や神殿に手をつけることをしなかった。そしてバビロンはヨヤキンの代わりにおじのゼデキヤを王とした。
そのゼデキヤもやがてバビロンに反乱を起こし逆に攻められた。
列王記下25章6節以下には、「王は捕らえられ、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行かれ、裁きを受けた。彼らはゼデキヤの目の前で彼の王子たちを殺し、その上でバビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァルの第十九年のこと、バビロンの王の家臣、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、主の神殿、王宮、エルサレムの家屋をすべて焼き払った。大いなる家屋もすべて、火を放って焼き払った。また親衛隊の長と共に来たカルデア人は、軍をあげてエルサレムの周囲の城壁を取り壊した。民のうち都に残っていたほかの者、バビロンの王に投降した者、その他の民衆は、親衛隊の長ネブザルアダンによって捕囚とされ、連れ去られた。」 と書かれている。
こちらが紀元前587年に起きた第2回バビロン捕囚で、世界史の試験に出てくるのはこちらの方。補囚の規模は小さかったが、町と神殿は破壊された。
自分たちが信仰の拠り所としていた神殿が破壊されてしまったことはユダヤ人にとっては大きなショックだっただろう。目に見える大きな神殿があるということはそれだけでユダヤ人に安心感を与えていたことだろう。
それまではアッシリア軍に包囲されても奇跡的に助かったこともあった。そんなことからエルサレムの不滅、神殿の不滅という考えが広がっていたそうだ。不敗神話のようなものか。神殿がある限り、自分たちが滅ぼされるようなことはない、というような考えが広がっていたのだろう。
確かに神殿はそこで犠牲を献げるという大切な場所であった。犠牲をささげることで神とのつながりを持っていたわけだから。しかし神殿があるから自分たちは大丈夫なのだ、神殿がある限り守られるのだ、ということになるとそれはおかしなことになる。神に守られるというよりも神殿に守られるということになればそれは変な話しだ。けれども当時のユダヤ人たちはそんな傾向にあったようだ。神殿があってそこで犠牲をささげている、それをしておけばもう後は何もしなくてもいい、というような思いがあったようだ。神殿で犠牲を献げているけれど、でも神の声を聞いてなかったらしい。目に見える大きな神殿で、目に見える犠牲を献げることだけが大事になり、神が命じている隣人を大事にするや、困っている者や弱い立場の者のことを全く省みることもなくなってしまっていたようだ。それはいろんな預言者たちが指摘してきたことでもある。
約束
けれどもそんな時に神がエレミヤを通して民に語った言葉が今日の聖書の箇所だ。
「33:14 見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。 33:15 その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。 33:16 その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。」
神殿という目に見える対象をなくしてしまったユダヤ人たちに対して、神は恵みを約束する。そしてその約束、契約は決して破棄されることがないという。昼と夜が交互にやってくることが変わらないように、その契約はなくならないという。昼と夜がなくならないように、それほど確かに神はイスラエルの繁栄を回復し、彼らを憐れむというのだ。
目に見える信仰の対象がなくなったとき、国も滅び神殿も破壊されたその時に、神はイスラエルに語りかける。目に見えない言葉によって神はイスラエルに約束する。
そしてそれはイスラエルにとっては信仰の再吟味の時となったに違いない。そして実際バビロン補囚の間に旧約聖書の多くが編集されたそうだ。自分たちの信じてきたことは何だったのか。自分たちの信仰とは何だったのか、そのことを吟味する時となったようだ。目に見える形がなくなった時に初めて目に見えない神が見えてきた、神の言葉が聞こえてきたということかもしれない。
パワースポット?
最近テレビで神社の建て替えのことをよく見る。出雲大社が建て替えたとか伊勢神宮を建て替えるとか言っていた。大きな神社は境内に入るだけでなんだか違った雰囲気が確かにある。そこをパワースポットなんて言い方もしているみたいだ。この前そういうところにお参りにいくようなテレビを見ながら、神社ってそこに行くだけでいいんだなと思った。別にそこで神の話を聞きに行っている訳ではないんだ、なんて思った。だから決まった時間に行く必要もないし、そこに誰もいなくてもいいんだ、なんてことを思った。
教会の礼拝に来るのとは随分違う感覚なんだろうなと思う。大きな会堂のある教会ならばそこに入るだけでもなにか違う感じがするのかもしれないけれど、そこの入っただけで何か違うとはあまり思わないような気がする。
それよりも教会だと言葉を聞くことを大切にしていて、だからこそ決まった時間に集まって、いつも聖書を読んで、メッセージを聞いているわけだ。
ユダヤの人達は神殿で犠牲を献げとけばそれでいいんだということで、神の言葉をあまり聞いてなかったのではないかと思う。少なくとも真剣には聞いていなかったのではないかと思う。
大切に思っていた神殿を破壊されてしまったということでユダヤの人達はどう思ったのだろうか。この教会堂が壊されてしまったような感じなんだろうと思う。一所懸命に建てた会堂を壊されたら本当にショックだろうなと思う。
しかし神の言葉は壊されることはない、消えることはない、そして人々を大切に思う神の思いも消えることはない、そのことをエレミヤは伝えているのだと思う。
神殿が壊されても、神の言葉は壊されることはない。その壊されないものこそが大事なものなのだ。ユダヤ人たちはバビロンへ補囚されたことで自分達の信仰を振り返った。そしてそこで旧約聖書の多くは編集されたそうだ。
神殿は壊されたけれど、却って神殿が壊されたことで本当に大事なものが見えてきたのかもしれないと思う。
ダウン症の息子と二人で生きている歌手の話しを本で読んだことがある。たまたまコンサートをした町で、公園のベンチで休もうとした時に、そのベンチに、「疲れた者、重荷を負うて苦労している者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエス・キリストの言葉が書いてあったのを読んですごくホットしたと書いてあったと記憶している。彼女はクリスチャンでもなくて、その時は誰の言葉なのかも知らなかったそうだけれど。
そんな風に神さまは言葉を通して私たちを慰め力づけてくれる。聖書を通して私たちもそんな神の言葉を、壊されることのない言葉を聞いていきたいと思う。