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礼拝メッセージより
「新しい契約」 2013年6月23日
聖書:エレミヤ書 31章27-34節
契約
契約ってなんだろう。
結婚式では生涯夫婦となることを誓いますとか約束しますとか言うけれど。その誓いを破るとその結婚は破綻する。両方とも守らないと契約は成り立たない。
今日の聖書にも契約が出てくる。神との契約とは何なのだろうか。神と人との契約というのは人間同士のように、お互いが了解して結んだようなものなんだろうか。そして結婚だと破棄されたら別れることになるけれど、神との契約が破棄されて神と別れたら人間はどこにいけばいいんだろうか。
時代
エレミヤの時代、彼らの国は北の王国イスラエルと南の王国ユダに別れ、北のイスラエルはすでに滅亡し、南のユダもバビロニアの脅威にさらされており、やがて南のユダも滅ぼされ、指導者たちはバビロンへ補囚されていくという時だった。
そのころの王はかつての契約を守らず、自分たちの先祖をエジプトから導き出した神ではない別の神々、聖書で言う偶像を礼拝していた。中には、自分達の神を信じる王もいたが、そんな王も少なく、やがて国は滅びに向かっていった。
エレミヤはその国の滅びを神から、みんなに知らせるようにと言われ、そのことを王や民に告げた。国が滅びるのは真の神に従わなかったため、つまり偶像を礼拝したため、また神の命じる貧しい者を顧みるように、という言葉に従わなかったために起こったことだ、だから悔い改めて真の神を礼拝しよう、真の神に従おうと告げた。
しかし、自分たちの国が滅びるわけがない、自分たちは特別な民族なんだからどこにも負けない、とかバビロンからだってすぐに帰ってこれるだ、というような者たちがいて、エレミヤはそんな人たちから迫害を受けることになった。聞く耳を持たない民の指導者たちは彼を抹殺しようとし、親しい友は彼を裏切り、同郷の者たちも暗殺を企てたそうだ。
そんな中で、エレミヤはバビロンへ連れて行かれた者たちに向かって神からの言葉を伝えた。このことは神がそうしたのであり70年は帰れない。これは自分たちが神に背いたために起こったことではある。しかし決して神から完全に見捨てられてしまったというわけではない。これも神の計画なのだ、だからそこでしっかり生活しなさいと勧めた。
新しい契約
そして今日の所では、契約を守らなかった民に対して、神は新しい契約を結ぶというのだ。かつて契約を守らなかった奴のことなど構ってられるか、とは言わない。
契約を守らないということは契約が破棄されることになり、そうすると両方の関係が絶たれるということになる。おまえと俺とは関係ない、ということになる。神と人としての関係が崩れたならば、そこからは自分の神とか、自分の民という関係ではなくなるということだ。しかしこの神は新しい契約を交わしてこの民との関係を持ち続けようとしている。
神と民
神と人という関係の中で私たちは生きている。神なしで生きていけるのか。親がなくても子が生きていけるのかということと似ているように思う。子はしだいに親から離れていく。しかし自分を全面的に受け入れてくれる、受け止めてくれる、愛してくれる、そんな関係があることで子どもは安心して親から自立していくそうだ。何かが出来るからとか、何かが優れているからとか、そんな条件付きではなく、無条件にただ親と子であるという関係があるだけで、つまり自分の子どもだからというだけで全面的に受け入れてくれる、そんな親を持っているということで子どもは安心して生活し自然と自立するそうだ。
神と人との関係も似ているように思う。神から自立ということはないみたいだが、人にとって自分を全面的に受け止めてくれる神を持っている、知っているということはとても嬉しく安心できることだと思う。神は私たちを根底から支えている硬い岩のようなものだろう。その岩の上で私たちは支えられて生きていく。
そんな神と人との関係を保つために、神はこれこれこうしなさい、と掟、律法を与えられたのだろうと思う。岩の上にいるために、ここから外に行ってはいけませんよ、と言われたようなものだと思う。そしてイスラエルの民たちはその律法を守りますと誓った。神と民との関係をなくさないために、岩の上にいるために、その律法を守ると契約した。
しかしそんな神との契約をイスラエルの民は破ってしまった。命令に背いて岩の上から降りてしまったわけだ。
胸の中
だがしかし神はそんな民に向かって新しい契約を結ぼうという。新しい掟、律法を与えるという。岩の上から落ちないためだったけれど守れなかったかつての契約ではなく、新たな契約を結ぶ日が来るというのだ。
そして今度は新しい律法を胸の中に記すという。
「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と言う。
神と民、神と人という関係ができる。それが新しい契約であるという。その新しい関係を崩さないための律法を神は心に記すというのだ。いつどんな時にもその律法を私たちが忘れることがないように、ということだろう。私たちの生きることすべてに神が関わっておられるからだ。困った時に助けてくれるだけではなく、私たちの存在の根底を神が支えておられるからだ。
そしてその心に記された律法とは、神の声を聞きなさい、神の言葉を聞きなさい、ということに尽きるのではないかと思う。
私たちは心の中にいろんな言葉を記されているのだと思う。小さい頃から親に聞かされてきた言葉もある。お前は良い子だ、お前はできる、という言葉もある。お前はいつも駄目だ、ほらやっぱりできなかった、という言葉もある。私たちは私たちの心の中に記されているいろんな言葉に支配されてるというか影響されて生きていると思う。
僕は話し合いとか会議とは大嫌いだ。というかむしろ恐れている。自分の駄目さを指摘されるんじゃないかとか、何も言われなくても他の人の立派な様を見ることで自分の不甲斐なさを思い知らされそうだ。そうじゃないだろうとか、それは違う、と言われたら途端に落ち込んでしまう。間違ってることが分かったら間違ってたんだと思えばいいし、そこから修正すればいい話だと理屈では思っても、間違うこと自体がとても恥ずかしいことだという気持ちもあって、なかなか素直に間違いを認められない。きっと自分を責める、間違った自分を認めない、そんな誰かの言葉が心の中に記されているんじゃないかと思う。
でもそんな私たちに、神さまも新しい言葉を記した、と言われているような気がしている。何があってもお前が大事だ、どんな失敗しようとお前が大切だ、何も持っていなくてもお前を愛している、そんな言葉を神さまは私たちの心に記してくれているのだと思う。その神の言葉を聞いていくこと、それこそが新しい契約なのではないかと思う。
新しい契約とは、神の側は人間を愛し続けること、そして人間の側はその声を聞き続けるということ、そんな契約なのではないかなと思う。
私たちを責める言葉や元気をなくす言葉がいっぱい聞こえてくる。失敗したり挫折したりした時には大きな音となって聞こえてくる。でもそんな時でも、そんな時こそ、お前が大事なんだ、お前が大切なんだ、という私たちの心に記されている神の言葉をしっかりと聞いていきたいと思う。