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礼拝メッセージより
「足許を見る」 2013年6月16日
聖書:エレミヤ書 28章1-17節
バビロン補囚
紀元前609年バビロンはアッシリアを滅ぼし、前605年にはエジプトにも勝利し、パレスチナ地方はバビロンの支配下に入る。南ユダ王国も一度はバビロンに服従を誓うが、やがて反乱を起こし、逆に返り討ちに遭い、前597年エルサレムは占領され、ヨヤキン王や多くの指導者たちは、神殿財宝と共にバビロンに強制連行される。これが第一次バビロン捕囚で、数万人が連行されたと言われる。
バビロンは次の王としてゼデキヤを擁立し、エルサレム神殿も破壊されなかった。新しく王となったゼデキヤは当初はバビロン王に使者を送り、自らもバビロンを訪問して忠誠を示すが、国内ではバビロンへの服従を貫く和平派と、バビロンからの独立を目指す交戦派の対立が続き、次第に交戦派の力が強くなっていく。
預言
丁度その頃の出来事。27章を見ると、ヨヤキン王の就任の祝賀のためなのだろう、各国の使節団がエルサレムにやってきていた。その時にエレミヤは軛の横木と綱をつくって自分の首にはめて、バビロンへ服従するように、そうすれば「わたしはその国民を国土に残す、と主は言われる。そして耕作をさせ、そこに住まわせる」という神の言葉を告げる。そしてゼデキヤにも「首を差し出して、バビロンの王の軛を負い、彼とその民に仕えよ。そうすれば命を保つことができる」という言葉を告げる。
当時はユダの周辺諸国に反バビロン同盟結成の動きがあったようだ。エジプトの力を頼りに、バビロンに対抗しようとする好戦派が勢力を増していたようだ。しかしエレミヤはバビロンへ服従することが神の意志であると告げる。
ハナンヤ
そして今日の28章では、預言者ハナンヤが登場しエレミヤと対決する。
ハナンヤはバビロンから、神殿の祭具も補囚にされている民ももうすぐ帰ってくる、主がバビロンの軛を打ち砕くからだ、と言った。
しかしエレミヤはそれに対して、「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように。だが、わたしがあなたと民すべての耳に告げるこの言葉をよく聞け。あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」と言った。
これはどういう意味なんだろうか。主がバビロンから神殿の祭具や補囚の民が戻してくれることを自分も望んでいる。昔の預言者たちも戦争や災害や疫病を預言した。預言者の多くはそんないやなことを言ってきた。しかし平和の預言者は、それが成就して初めて本物だと分かると言っているみたいだ。要するに自分の国に平和が来る、というような聞こえの言い預言者はあまりあてにはならない、平和の預言者なんてのは所詮偽物ということを言っているのかもしれない。
それを聞いたハナンヤはエレミヤの首から軛をはずして打ち砕いたという。そして主は二年のうちにバビロンのネブカドネツァルの軛を打ち砕く、という自分の主張を繰り返したという。どうやらエレミヤからお前の預言は当てにできない、信用できないと言われたことで興奮してエレミヤの軛を砕いたようだ。
一方エレミヤは冷静であるみたいだ。黙ってそこを立ち去ったようだ。そしてその後ハナンヤへの主の言葉を預かり、そのことば通りにハナンヤはその年の7月に死んだ、なんてことが書かれている。
本物
預言者が二人登場して、その二人が全く反対のことを語っているとき、そのどっちが正しいのか、どちらが本物なのか、どこでどう判断すればいいんだろうか。
そもそも預言者ってどうやって神の言葉を聞くのだろうか。耳に聞こえてくるのだろうか。それとも心の中に湧いてくるような感じなのだろうか。聖書を読むと、まるで電話でもかかってくるかのように神の言葉が聞こえてきたような書き方をしているけれど、実際はどうなんだろうか。そして預言者自身、それが神からの言葉なんだという確信できるのだろうか。きっとできているからみんなに告げるのだとは思うけれど、その言葉が電話のように聞こえるのかイメージとして湧いてくるのか、いずれにしても、それが神からのものであるということ、自分の勝手な思いこみではなく神からのメッセージであるということを、どうやって判断するんだろうか。
それは預言者自身の問題でもあるわけだけれど、ではそんな預言者と称する人たちの言葉を聞く者にとっては、どれが本物であるのかということをどこでどう判断すればいいんだろうか。
耳の痛いことを言っている方が本物、ということなんだろうか。そういう面もあるかもしれないとは思う。耳障りのいいことって、その時には気持ちよくても後では何も残っていないなんてことも多いような気もする。
どちらが本物なのかなんて私たちには分からない。分かったとしても、俺たちの言葉の方が本物なんだと自慢しても仕方ない。
私たちには聖書を神の言葉として読んでいる。だから聖書を読んでいる私たちの方が正しい、なんて言っても仕方ない。この言葉を私たちがどう聞いていくかが大切なのだと思う。
それは耳の痛い言葉をしっかりと聞いていくことなのかもしれない。それは自分をしっかりと見つめる言葉であり、自分を省みる言葉なんだろうと思う。自分の罪や間違いや過ち、それを示される言葉こそが本物の神の言葉なのではないかと思う。つまり神の言葉ってのは、私たちを舞い上がらせるような気分にしてくれることよりも、私たちの足許をしっかり見つめさせようとすることが多いような気がする。
つまり、神の言葉とは、苦しく辛い人生を忘れさせて夢見心地にしてくれるものではなく、それはそれでいいかなとは思うけれど、夢というのはやっぱり醒めてしまうわけで、夢見心地にさせてくれるというよりも、自分の足でしっかりと立つようにと励ましてくれるものなのではないかと思う。
苦しい現実を見ないようにさせるのではなく、その苦しい現実を生き抜く力を与える、それこそが神の言葉なんだろうと思う。現実を見ることはつらいことでもある。しかし、お前には今を生きる力がある、進む力がある、だから次の一歩をしっかりと踏み出しなさい、私がいつも共にいるのだから、決してひとりぼっちではないのだから、神はそう言われているのではないか。
エレミヤも、現実をしっかりと見つめなさい、足許をしっかりと見つめなさいと語ってきたのではないかと思う。神は私たちを高い天から、ああしろこうしろと指図しているのではなく、私たちの足の下から私たちを支えてくれているように思う。自分の駄目さもだらしなさも全部ひっくるめて、神は私たちを足許から支えてくれているだと思う。
だから、そんな神の言葉をしっかりと握りしめて、足許をしっかりと見つめて、着実に次の一歩を踏み出して行きたいと思う。