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礼拝メッセージより
「思い直す」 2013年6月9日
聖書:エレミヤ書 18章1-10節
エレミヤ
エレミヤは神の言葉を預かる預言者として神に召された人物。神から民に言葉を伝えなさいと言われたのが、1章によるとヨシヤ王の13年ということで紀元前626年になるようだ。北イスラエルがアッシリアに滅ぼされから100年程たったころで、アッシリアに変わってバビロニアが台頭してきて、やがて南ユダ王国もバビロニアに攻められやがて滅ぼされ、国の主だった人達はバビロンに補囚される、その頃だそうだ。
エレミヤはユダの民が神の命令に背いたためにやがて国は滅ぼされる、という神の言葉を民に伝えた。民からすると、自分達がどのように間違っているかということを聞かされることであり、やがて国も滅ぼされ外国に補囚されるだろう、なんていう全く面白くない、聞きたくもない話しを聞かされることであっただろう。実際にエルサレムがバビロニアによって占領されて、第一回の補囚があったのは、エレミヤが神に言葉を語るようにと言われてから30年ほど経ってからだった。
耳に痛い話しを聞く民の方もいやだろうけれど、それを語り続けるエレミヤも大変なことだっただろう。話しを聞いて、民も国も変化があるならば、エレミヤも話し甲斐もあるだろうけれど、30年程は民の行動も変わらず、国の状況も危機感を持つほどに目に見えて悪くなっていくというわけではなかったようだ。17章15節には「ご覧ください。彼らはわたしに言います。『主の言葉はどこへ行ってしまったのか。それを実現させるがよい』と」と書かれているように、脅かすようなことばかり言っているがそんなことにはなってないじゃないか、とエレミヤを中傷する人もいたようだ。そんな中で、このままの状態を続けると大変なことになると語り続けるということはとても大変な事だったろうと思う。
陶工
そんな時に今日の言葉が語られたのだろう。国が滅びると言っているのになかなか滅びない、自分を非難する者は一体何時滅びるんだと言うけれど、今でしょうと言えない辛さがある。
そんなエレミヤに対して神は、立って陶工の家に行けと言った。そして陶工が粘土で器を作っても気に入らないと作り直す様を見せて、お前たちはわたしの手の中にあるという。また民や王国を滅ぼすこともあるが、悪を悔いるなら災いをくだそうとしたことを思いとどまる、また民や王国を建てる時もわたしの声に聞き従わないならば幸いを与えようとしたことを思い直すと言った、と書いてある。
希望
6節まではエレミヤに語られたことで、7節以下はバビロンに補囚された後に、補囚された人達に向けて語られた言葉ではないかと誰かの説教に書いてあったけれど、確かに少し違う話しになっていると思う。
6節までは陶工が、自分の作る器が気に入らない時にはもう一度粘土をこねて作り直すという話しで、陶工が気に入るかどうかが問題となっている。お前たちはこの粘土のようにわたしの手の中にある。その気になればもう一度こね直して作り直すことだってできるのだと言っている。
しかし7節以下では、民が神に従うかどうかが問題になっていて、それによって幸いや災いを与えたり思い直したりすると言っている。どうも粘土をこね直すという話しとは別のように思う。
粘土をこね直すように、全く最初から作り直すこともできる、けれども民が悪を悔いるならば災いをくだそうとしたことを思い直す、ということかな。
バビロンに補囚されている人達は、自分達の国がどうして滅ぼされてしまったのかということを真剣に考えたようだ。そしてその原因はエレミヤが語っていたように、自分達が自分達の神に従ってこなかった、神の命令に背いてきたことだと気付いたようだ。国がなくなってしまってからそんなことに気付いても後の祭り、となっても仕方ないような状況だ。今さらそんなこと言ったってどうしようもない、というような状況だ。陶工が粘土をこね直すように、きれいさっぱり一から作り直す、お前たちは跡形もなくなる、と言われても仕方ないような状況だし、もうどうしようもない、俺たちは断罪されたのだ、と諦めている人達もいたんじゃないかと思う。
でもそんな時に、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる、と言う声を聞いたわけだ。もう希望は失せたと思っていた人たちにとって一筋の光となっただろうと思う。
8節の最後の思いとどまるという言葉と10節の最後の思い直すという言葉は同じ言葉だそうだ。どうして違う言葉に訳したのだろう。思いとどまるというと、本当は災いをくだしたいけれど、ぎりぎりその気持ちを抑えているような感じがするけれど、思い直すというと災いを下す気持ち自体がなくなっているような感じがする。もともとは悔い改めるというような意味の言葉らしくて、災いを下すことをぎりぎり我慢するのではなくて、災いを下すという考えを止めてしまうということのようだ。
バビロンに補囚されている人達にとって、それは絶望するしかないような状況だと考えられていたと思う。しかし自分達が悪を悔いるならば神も災いを下すことを思い直すと言ってくれている。そうするとバビロン捕囚も決して絶望する必要はないことになる。悪を悔いて神に従うことで、神はこの災いを思い直してくれるという希望を持つことができたに違いないと思う。
また何より自分達に対して神が語りかけてくれていることが大きな力となったんじゃないかと思う。自分達が見捨てられてしまったわけではない、ひとりぼっちになっているわけではない、自分達のことを心配し声をかけてくれるということは苦しみを耐え抜く力になっただろうと思う。
お前たちが罪を悔いて私のもとに帰ってくるならば、私は喜んで迎え入れる、ユダヤ人たちはそんな神の言葉に希望がもってバビロン捕囚という苦しみを耐え抜いてきたんだろうと思う。
苦しみの中で
私たちもきっと同じだろう。私たちもいろんな苦しみの中に生きている。独りぼっちならばとても耐えられないような苦しみもあるだろう。しかし神は私たちに、お前を決して独りぼっちにはしないと言ってくれている。お前が大事だ、お前が大切なのだ、と言ってくれている。
神は見えないし聞こえない。しかしそんな神の言葉を受け止めるならば、受け入れるならば、それは私たちを支える力となると思う。
神は私たちの心の中に語りかけておられるのではないか。耳をすましてしっかりと聞いていきたいと思う。