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礼拝メッセージより
「生まれる前から」 2013年6月2日
聖書:エレミヤ書 1章1-10節
お誕生会
幼稚園で毎月のお誕生会があって、そこでは「生まれる前から神様に、守られてきた○○ちゃんの誕生日です、おめでとう」という歌をみんなで歌っていた。何の歌かと思ったらこどもさんびかというのに載っているらしい。
生まれる前から守られてきたというのはなんだかすごいなあと思う。生まれる前はどこにいたんだろうか、死んだ後はどこに行くんだろうか、なんて思う。生まれる前も、死んだ後も守られると嬉しいなあと思う。
最近ネットで神はどこにいるのかとか、そもそも神はいるのか、なんてことを書いているサイトをよく見ている。結論からいうとよくわからないというかはっきりしないということになるみたいだ。神がいるという証拠はない、そして神がいないという証拠もない。預言者と言われるような人達は神の声が聞こえたのかもしれないけれど、凡人にはそれも聞こえない。聞こえたら聞こえたでそれが神の声なのかどうかということになるし、そんなこと言い出したら切りがない。結局それを信じるか信じないかということなんだろう。神がいると信じて生きていくか、いないと信じていくか、どっちの生き方を選ぶのかということだ。
そうするとやっぱり信じて生きていく方がいいんじゃないかと思う。聖書では神がいつも共にいるというわけだけれど、そんなことないと思って生きていくのか、そうだと思って生きていくのか自分で選択していくことのように思う。
共にいてくれるという相手がいるということはやっぱりとても嬉しいことだと思う。
小学生の高学年の頃だったかと思うけれど、その頃から宇宙の話しを聞くのが好きで、何億光年先に見える星の光は、何億年も前にその星を出た光で、その星の何億年前の姿が見えているなんてことを聞いては、すごいなあと思っていた。ある時夜中に目が覚めて、どういうわけかそんな広い宇宙の中にポツンとひとりで浮かんでいるような感覚になったことがあって、そうするとすごく淋しくて、布団の中で横にいることもできないでしばらくひとりで膝を抱えて、そのあと恐怖感を持ったまま眠ったことがあった。
いつも共にいてくれると言ってくれる神がいることを信じられるというのはやっぱりとても幸せなことだなと思う。
預言者
昔々そんな神の言葉を伝えたという預言者がいた。
旧約聖書の預言者が集中的に活躍したのは二つの時期。ひとつは紀元前8世紀の北イスラエルがアッシリアに滅ぼされた紀元前721年を中心とした時期。もうひとつは南ユダが滅ぼされ、バビロン補囚を過ごす紀元前587年を中心とする時期。エレミヤもちょうどこの時期にあたる。二つとも国が滅びるとき。
国が滅びるとき、そこにはなんらかの原因があるわけで、その原因を指摘するために、預言者が登場した。つまり、滅びに向かう原因となる間違いを指摘するため、そしてその間違った道から正しい道に戻るための指針を与えるために預言者がいたようだ。
しかし間違いを正すのはなかなか難しい。人は誰もがそうであると思うが、自分の間違いを指摘されてその通りだとすぐ納得できない。おまえは間違っていると言われても、そうですねえ、と言ってすぐに正そうとする人なんてのはほとんどいない。逆に間違っている、おかしいと言われ続けると次第に怒りだす。ひどくなるとそんなことを言う奴は許せない、と攻撃するようになったりする。
預言者はそうやって誰もが多かれ少なかれ民から苦しめられたそうだ。
エレミヤも然り。民に向かって苦言を呈することになるわけだ。それはなかなかしんどいことだ。
拒否
エレミヤ書の1章はエレミヤが神に預言者として立たせられた箇所。神の言葉を語るなんてのはそう簡単にはいかない。預言者がどういう立場に立つのかということもエレミヤは知っていたのかもしれない。みんなが聞きたくもない、というようなことを言う立場になるということはなかなか大変なことだ。大勢の民に立ち向かって独りぼっちで語るというような所がある。
ちょっと待ってくれ、といいたくもなる。冗談じゃないよ、俺に出来るわけないよ、となる。
若さ
この時エレミヤは何歳だったのか。20歳前後か、12歳という説もあるそうだ。とにかく誰もが若いと認める歳だったようだ。若いからできない、未熟だからできない、とエレミヤは考えた。
若いから、未熟だからできない、大事なことは任せられない、と人間は誰もがそう思う。間違っているぞ、と言うのでも年取った立派な人生を歩んだ者の言うことならみんな聞くかもしれない、しかし若造が民の重鎮に向かって語ってもどれほど聞いてもらえるだろうか。あんたらおかしいよ、と言っても、はいはいそうですか、って感じで聞いてももらえないんじゃないかと思う。
しかしそんな人間を神が選んで大事な努めに着かせようとしているのだ。一体どんな基準でエレミヤを選んだのか、まるで分からない。おまえがやれと言われて、若いからできないよ、と尻込みするようなそんな人間をどうして選ぶのか皆目見当が付かない。人間的な感覚からいえばまるで分からない。どうしてそんなことすんの。なんでわざわざ頼りない無力な人間を選ぶようなことをするのかと思うようなことをする。
突然の命令を聞いた若い未熟なエレミヤが躊躇したのも当然のように思う。自分がどうやってするのか、自分にどうして出来るのか、そんなのいやだしたくない、そう思うのも当然だ。
共にいる
そんなエレミヤに対して神は、わたしがあなたと共にいて必ず救い出す、と約束する。これが神の保証なのだ。
神は自分が共にいるからやりなさい、と言っている。神が共にいるからこそその務めを果たすことが出来るということだろう。
生まれる前から知っているという神が今も私たちと共にくれている、と聖書は語る。
今私たちがこの教会に連なっているということはそれはただの偶然なのか、それともこの神の導きなのか。もちろん神の導きであるという証拠はない。神から、私が導いたという声を聞くこともできない。ならばただたまたまこの教会に入ってきただけなのか。
ただの偶然ではなく、神が私たちの人生を見えないところで導き支えてくれていると考えることも出来る。そしてそう信じることが出来るというのはとても嬉しいことだと思うし、安心できることなんじゃないかと思う。
夜ひとりで目覚めた時でも、宇宙にひとりで彷徨っているように思え時でも、そこに神が共にいてくれると信じられるならば、もっと安心して眠れたんじゃないかと思う。
生まれる前から、そして死んだ後も共にいてくれるというこの神を信じて生きたいと思う。この神は私たちにいろんなことを語りかけるそんな神だ。私たちが正しい道に帰るようにとついつい口出ししてしまうらしい。それは私たちのことが大切で仕方ないからなのだそうだ。
そんなに大切に大事に思ってくれている、そしていつも共にいてくれている、この神の言葉を私たちもしっかりと聞いていきたいと思う。そしてこの神に従っていきたいと思う。