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礼拝メッセージより
「絶体絶命」 2013年5月26日
聖書:イザヤ書 37章1-7節
脅威
今日の箇所は36章からの続きになる。36章を見ると、ヒゼキヤ王の治世第14年に、アッシリア軍がエルサレムを包囲した。その時のアッシリアの王はセンナケレリブ。
当時、北イスラエル王国の首都サマリアはすでに陥落し、有力者は捕囚としてアッシリアに連れ去られて、滅亡していた。北イスラエルからの亡命者、難民の流入で、南ユダ王国は不安に戦いている。
ヒゼキヤ王は南のエジプトや東にできたバビロンの協力を得てアッシリアに対抗しようと画策する。しかしアッシリアは南下してきてユダの砦の町をことごとく占領し、エルサレムも包囲してしまう。アッシリアの脅威が目の前に迫ってきている。
同じことが列王記下18章13節以下のところにも、ほとんど同じ内容が出てくる。多分イザヤ書を編集した人が列王記をそのまま写したんだろうと思う。しかし列王記では、ヒゼキヤがアッシリアの王に人を遣わし、「わたしは過ちを犯しました。どうかわたしのところから引き揚げてください。わたしは何を課せられても、御意向に沿う覚悟をしています」と言わせた。そこでアッシリアの王はユダの王ヒゼキヤに銀三百キカルと金三十キカルを課した。ヒゼキヤは主の神殿と王宮の宝物庫にあったすべての銀を贈った。またこのときユダの王であるヒゼキヤは、自分が金で覆った主の神殿の扉と柱を切り取り、アッシリアの王に贈った。と書かれている。
ヒゼキヤは国の中に蔓延していた偶像崇拝をなくす、宗教改革を行った王だった。主なる神こそ自分達の唯一の神なのだ、という体勢を調えた。でも聞きに直面するとそんなことばかりも言ってられなかったのだろう。ヒゼキヤは何とか助けてもらおうとなりふり構わず画策しているかのようだ。アッシリアが迫ってきて、自分の命も危うくなり何とかして命乞いをしているかのようだ。しかしこのことはどういう訳かイザヤ書には出てこない。他はほとんど同じことが書かれているみたいだけれど、イザヤ書を編集した人がそのことを省いたんじゃないかな。。
しかしアッシリアはそのだけでは許してくれず、今度はラキシュという町からラブ・シャケを使者としてエルサレムに遣わして、ヒゼキヤ王の家臣たちにヒゼキヤ王への伝言を伝える。
エジプトなんかに頼っても無駄だ、主に頼むんでもダメだ、我々がお前達を滅ぼして来ているのは主の命令なのだ、なんてことを言う。
ヒゼキヤ王の家臣たちは、民衆の分かる言葉で言うのはやめてくれなんてことも言ったがラブ・シャケは、ヒゼキヤが主が救い出してくれるなんて言っても信用するな、どこの国の神もアッシリアから救い出してくれたところなんかない、降伏しろ、と言った。
ラキシュという町はエルサレムの南西にある町だ。アッシリアは北からやってきて、もうすでにエルサレムよりも南の方まで攻めてきていて、エルサレムが陥落するのも時間の問題、というような状況なのだろう。
その家臣たちからの伝言を聞いたところから今日の37章が始まる。
ヒゼキヤ王は衣を裂き、粗布を身にまとって神殿に行った。これは嘆きのポーズのようだ。アッシリアの脅威をなんとかかわそうとしてきたけれども、ここにきてもうどうしようもなくなった。一体どうしたらいいのか、ということのようだ。目の前の脅威から逃れる術はもうない、もうだめだという気持ちも少なからずあったのだろう。
ヒゼキヤは家臣たちをイザヤの元へ遣わす。もうどうしようもない、どうか私たちのために祈って欲しいということを伝えた。するとイザヤは、恐れてはならない、主がアッシリアの王の中に霊を送り、自分の地に引き返すようにする、彼はその地で剣にかけられて倒される、という主の言葉を伝えた。
しかしその後アッシリアの王センナケリブは、使者を遣わし、ユダの王に、「お前が依り頼んでいる神にだまされ、エルサレムはアッシリアの王の手に渡されることはない、と思ってはならない」と伝えた。これまでアッシリアによって滅ぼされた町の名前をいちいち出している。ゴザン、ハラン、レツェフ、テラサルは、いずれもユーフラテス河畔やチグリス河畔のメソポタミア地方にあった町。その町々に住む人たちは、神々を祀っていたが、それがいったい何の役に立ったか、何の役にも立たなかったではないかとセンナケリブは豪語し、やがてエルサレムも陥落し、その町の住民が信じていた神の無力さが暴露されると書き送った。
手紙を受け取ったヒゼキヤは主の神殿に行き、手紙を前に広げて唯一の神に祈った。「わたしたちの神、主よ、どうか今、わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国があなただけが主であることを知るに至らせてください」と祈った。
イザヤは神の言葉を告げる。それは、神はアッシリアの王の傲慢な態度を赦さない、アッシリアの王がエルサレムに入城することはない、来た道を帰る、ということだった。
37:36以下には、主の使いが現れて、アッシリアの陣営で18万5千人を撃ち、皆死体となっていたので、センナケリブ王はニネベに帰り、やがて息子に殺されたということが書かれている。
絶体絶命
列王記によると、アッシリアの脅威が迫ってきた時に先ずしたことは、センナケリブ王に金や銀を贈ることだった。何とかこれで助けてもらおうとした。自分の力で、自分の策略によってどうにか難を逃れようとした。しかしそれが何の効果もなかった。神殿の金銀を贈るというのは相当に切羽詰まっていたということなんだろうと思う。残る方法はそれしかないというところだったのだろう。しかしそんな窮余の策も効果がなくなったということは、もう手の打ちようがない、絶体絶命の状態になったということなんだろう。
しかしそこでヒゼキヤ王は神に助けを求めた。イザヤに祈って欲しいと告げた。その後アッシリアの王からの手紙を受け取った時には、自分が神殿に行き祈った。
もうそれしかない、という状況だったのだろうと思う。しかしヒゼキヤ王には祈るということができた、神に助けを求めるということができた。
この時には、主がアッシリアを撃ったので奇跡的に助かった。なんだか神風みたいだ。
信頼
しかし祈ったからといっていつも神風が吹くとか限らない。祈れば必ずその願いが叶うというものでもない。叶って欲しいけれどそうではないところが悩ましいところだ。でも逆に祈ったらいつもその通りになるのであれば、それは神に祈ると言いつつ、その実体は部下に命令しているようなものだ。でも案外僕の祈りはこれに近いのかもしれないと思う。自分の願いどおりにならないと、どうして出来ないのだ、と思うのは神を部下のように思っているからかもしれない。
祈りとは神を変えることではなく自分を変えることだ、ということを聞く。自分の願いどおりにするように神の気持ちを変えることが祈りではなく、逆に自分を変えることが祈りなのだと言う。そう言われても分かるような分からないような気持ちだ。
ある本の中に、祈りというのは、岸からロープに繋がっているボートに乗って、そのロープを引っ張るようなもの、と書いてあった。そのロープを引っ張るとまるで岸が自分に近づいてくるように感じる、けれども実際に動いているのは自分の方である。
祈りってのは自分が動くことで神が動いているように感じること、かな。それもだいぶ抽象的で分かりにくいけれど。
何度も話すことなので聞き飽きた人もいるかもしれないけれど、昔女子高校生コンクリート殺人事件の本を読んだことがあった。何人かの少年が女子高生に何日も暴行し、死んでしまったのでドラム缶にコンクリート詰めしたという事件。少年たちが逮捕され、その裁判で少年の親たちも自分の子どものことを証言していたことも書かれていたと記憶している。
読むだけでしんどくなるような本だったけれど、本を読みながら自分の子どもが大変な事件を起こしてしまったという親の苦しい思いが伝わってきて、自分も苦しい気持ちになるようだった。
そんな本を読みながらふと思ったのは、変な話しだがこの親たちは祈らないんだと思った。どうして祈らないんだろうとも。本当は祈れない、祈ることを知らないんじゃないかと思った。
祈ったら楽になるとは簡単に言えないけれど、でも苦しさを自分だけで抱えていくとしたらこれはとても大変なことで、祈れないということは本当は大変なことなんじゃないかと思った。
祈りとは何だ、なんて言い出すと結構むつかしい。でも祈れること、祈る相手がいることはとても幸せなことなんだと思う。
祈ったからと言って状況は変わらないかもしれない。けれども私たちがロープを引っ張ることで私たちが神に近づくならば、そこに見えてくる景色は変わってくる。それは自分が変わるということでもある。というのは屁理屈かな。
兎に角、どんな絶体絶命のピンチになっても私たちには祈ることができる、祈る相手がいるのだ。私たちを愛してやまない、という神がいつも私たちと共にいてくれているというのだ。ほんとにありがたいことだ。