前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「希望の足音」 2013年5月19日
聖書:イザヤ書 52章7-10節
廃墟
南ユダ王国はバビロニアという国によって滅ぼされ、多くの人がバビロンという町に補囚されてしまった。
大国の力に翻弄されてきたというのが目に見えるこの時のユダヤの姿であった。自分たちの国は大国の前には無力であった、そしてその大国の力に対抗することもできずにもてあそばれ国は滅び、エルサレムも廃墟となり、もう50年もそんな有り様だった。それが目に見える現実だった。
国が戦いに敗れるということは、その国の神が敗北したのだと考えられていたそうだ。ユダヤの人達も自分達の国が滅ぼされてバビロンに補囚されたと言うことは、自分達の神がバビロンの神に負けてしまった、そしてエルサレムが廃墟のままなのは、神がエルサレムからいなくなったからだ、と考えていたらしい。
しかしそんな時に預言者がユダヤの民に語りかけた、それがイザヤ書の52章だ。1節では「奮い立て、奮い立て 力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。」と言われている。そして7節では、あなたの神は王となった、と言われている。
現実のエルサレムは廃墟のままである。しかしそんなエルサレムに奮い立て、輝く衣をまとえ、と言う。エルサレムから神がいなくなってしまったと思っている民に向かって、神が王となった、神が王である国ができる、神がエルサレムに帰るのをあなたたちは見るのだ、と言うわけだ。
そしてそんな良い知らせを伝える者の足はいかに美しいことか、と言われている。
見えないもの
私たちも目に見える事柄も厳しいし、その厳しい事ばかりに目を奪われてしまいがちだ。苦しいこと、大変なこと、自分の願い通りにならないこと、いろんなことが起こる。神を信じていれば自分の願いは叶うのだ、というようなことをいう宗教もいっぱいあって、真剣に祈れば病気も治る、金持ちにもなる、受験も受かる、事故にも遭わない、というようなことを聞くことも多い。印鑑とか壺とか買ったら商売がうまくいくとか病気が治るというようなこともよく宣伝している。それに似たような気持ちを私たちも捨てきれない面もあるように思う。
神なんだから自分の願いを聞いてくれて、それなりのことをしてくれるはずだ、まさか知らん顔はしないだろう、そんなことなら、神を赦さない、信じてやらない、というようなところがあるのではないか。神はいつも自分にいいものを与えてくれるもの、それも結局は自分が欲しいものを次から次へと与えてくれるものというように考えがちではないかと思う。
そして自分の願い通りになる時は、神さま有り難うといい、願ったようにならないと、どうして神は私の願いを聞いてくれないのかと文句を言ったりする。あるいは自分の願いを聞いてくれないなんていう神は信じないというようなことになりがちだ。こんなに祈ったのに聞いてくれなかったという。
けれども神はなんでも私達の願う物を出してくれるドラえもんではないのだ。私たちの願うことを次から次へと叶えてくれるロボットではない。願いが叶うときだけ働いていて、叶わないときには何もしてないというような道具ではない。
神はいつも、私たちの願いが叶うときも叶わないときも、いつも私たちと共にいてくれる、そして私たちが見えないところで私たちの全てを支えてくれている方なのだと思う。
誰の人生にもいろんな苦難が待ち構えている。神に祈ればそんな苦難に遭わないで済むというわけではないらしい。しかしそんな苦難を耐え忍ぶ力があれば人生を生き抜くことができる。神はそんな苦難を生き抜く力や希望を私たちに与えてくれているのではないかと思う。
ペンテコステ
今日はペンテコステだ。弟子たちが堂々とイエスのことを語り出したという、言わば教会の誕生日のような日だ。
イエスの十字架を前にして、イエスを見捨てて逃げ隠れしていた弟子たちを神は立ち上がらせた。弟子たちは聖霊に力によって、またかつてイエスから聞いていた言葉によって立ち上がって行ったのだろうと思う。イエスの言葉こそ、途方に暮れていた弟子たちを立ち上がらせたのではないかと思う。逃げ隠れしていた時に思い出したイエスの言葉によって力づけ、イエスのことを堂々と伝え始めたんじゃないかという気がしている。
廃墟となったエルサレムを目の前にして民は希望を失い途方に暮れていたと思う。しかし預言者はそんな民に語りかける。歓声を上げ喜び祝え、と。喜びの日が迫っているんだ、一緒にエルサレムに帰ろう、そんな神の声を預言者は伝えた。
最初は何を言っているんだ、もう50年も補囚されたままなのに、笑わせるなと思ったんじゃないだろうか。しかしそれでもやがてそんな言葉からじわじわと希望が湧いてきたんじゃないかと思う。
彼らは神の言葉を自分の心の中で反芻することで、だんだんと見えない神の導きを信じるようになっていったんだろうと思う。そしてそこに希望が生まれ、力が湧いてきたのだろうと思う。
神の言葉をしっかりと聞き、しっかりと反芻する、そこで私たちにも希望が生まれ、厳しい現実を生きる力が湧いてくるのだと思う。
美しい
いかに美しいことか、山々を行き巡り、よい知らせを伝える者の足は。と言われる。
私たちは神からの良い知らせを聞くと同時に、その良い知らせを伝えるようにとも言われている。それは人々に希望を与える知らせだ。言わば希望の足音を私たちは響かせていきたいと思う。それは聞く人にとっての喜びと喜びとなるだろうし、同時に伝える私たちの喜びともなるだろう。
そうやって共に喜ぶ者となりなさい、そんな希望の足音を響かせなさい、神はそう言われているのではないか。