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礼拝メッセージより
「出て来た」 2013年4月7日
聖書:マルコによる福音書 1章29-39節
教え
今日の聖書の箇所は21節を見ると、カファルナウムでの出来事で、その日は安息日だった。ユダヤ教の会堂でイエスが権威あるものとして教え、汚れた霊を追い出した後の出来事だ。
イエスの教えを聞いた人々の反応は「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」というものだった。
おもしろいことに人々は「新しい教えだ」と言った。「すごいわざだ」とは言わなかった。汚れた霊を追い出すのを見たすぐ後なのに、すごいわざだ、とは言わないで新し教えだと言った。
イエスがこの聖書に書いてある通り、文字通りに悪霊を追い出し病気を癒したのだろうか。当時は病気になるのはその人に罪があるからだ、と考えられていたようで、罪人とされた人達は社会から疎外され、誰からも相手にされなくなっていたそうだ。イエスはそんな社会から疎外され、傷つき悲しんでいた人達のところへ出向いていった。イエスに病気自体を治す力があったのかどうかわからない。そういう特殊な力で治したのか。あるいは声をかけられ、触れられることで元気になっていったのではないかとも思う。
また精神的な病気も悪霊の仕業だと考えられていたらしい。そんな人達にもイエスは近づいて行かれ、声をかけられ、そういうことから元気を取り戻す人もいたと思われる。
詳しくはわからないけれど、そんないろんなことがありイエスは病を癒し悪霊を追い出す方だ、という話しが強調されて伝わってきていたのだろう。
イエスは奇蹟と呼ばれるようないやしのわざを次々と行ったと聖書に書かれている。38節に「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」と言われているように、イエスの活動の中心はあくまでも「宣教」だった。神の国の福音を伝えること、福音を語ることが第一であった。
奇蹟
でもやっぱり奇蹟の話しを聞くとあこがれを持つ。いまでも超能力者と称する人がよくテレビにも出てくる。普通の人ができないことをする。テレビではそれを大げさに言う。昔スプーン曲げというのがはやった。子どものころ何とかできないものかと一所懸命スプーンをなでたりした。でも曲がらなかった。曲がったらみんなに自慢できるのにと思いながらだったが、そんな気持ちが悪いんじゃないのかと思って、無心に無心にとやったけど、結局何にも起こらなかった。その時はかなり失望した。
でもだいぶ後になって考えると、じゃあ、スプーンが曲がったとしてどうってこともない。それで幸せになるわけでもない、その時は自慢できてうれしくなったとしてもただの優越感があるだけで、それだけじゃないか、と思うようになった。今でもよくやっている超能力だって、それができたからといってどうなんだと考えるとどうってこともないなと思う。
奇蹟を起こせれば自慢できる、でもそればっかりじゃ虚しいだろうなと思う。心に喜びがふつふつを沸き上がるようなものが大事なんだろうし、イエスの近くにいた人達もイエスと出会い、そしてイエスの教えを聞き、元気になり喜びを感じていたんだろうと思う。あるいはそういうことから病気を癒すという話しになっていったのかなとも思う。
教え
32節「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た」
夕方になり日が沈むと一日が終わり、新しい一日が始まる。労働をしてはいけない、決められていた以上に歩き回ってはいけないという安息日が終わり、自由に歩き回れる新しい日が始まった。そうすると安息日での会堂の出来事を見聞きしていた人達が病人や悪霊につかれた者を連れて来たようだ。
さらに35節では「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出ていき、そこで祈っておられた」という時に、そこにシモンと仲間が追いかけてくる。日が沈んでから大勢の人が押し掛け、朝は暗いうちから探されているわけだ。イエスも大変だ。しかしそれはイエスを必要とする人が大勢いたということなんだろう。
病気と言うことで差別され、置き去りにされ、あるいは満たされない、苦しみ悲しんでいる者がそこに集められたのだろう。そしてその人々がイエスの教えを聞いていった。最初はそんな教えを聞くためにきたのではなかったかもしれない。ただ病気さえ治ればいいということだったのかもしれない。でもそこでイエスに会うことで、イエスの教えに触れることができた、福音に接することができたのだろう。
まるで今の教会のようだなと思う。いろんなきっかけで、いろんな期待を持って教会にきたのだと思う。イエスの教えを聞きたいからと思って来た人もいるかもしれないが、そんなこと考えもしないで来た人もいるだろう。どんな理由で来たとしても、要はそこでイエスに出会うこと、イエスの教えに耳を傾けることが大事なのだ。
イエスは「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」(38節)と言っている。イエスの教えを必要とする人が大勢いることを知ったイエスは、自分の方から出かけていく、と宣言している。
私たちもイエスの教え、イエスの言葉を必要としている者のひとりだろう。苦しみ悩みつつ、一体どうすればいいのかと叫びつつ生きている。その苦しみや悩みを自分ひとりで抱えなくてはならないとしたら大変なことだ。
イエスは見えないけれど、そんな私たちと共にいてくれている。そして聖書を通して、色んな人を通して語りかけてくれているのだろう。お前に会うために出て来た、苦しみ悩み、嘆き悲しんでいる、そのお前に会うために、お前に語りかけるために、そしてそんなお前の苦しみや悩みや嘆きや悲しみと聞くために出て来た、そんなものを全部ぶつけてくれ、お前のことを全部受け止めたいのだ、そしてお前が大切なんだという私の声を聞いてくれ、私がいつも一緒にいることを忘れないでほしい、イエスはそう言われているのではないか。