聖書:テサロニケの信徒への手紙一 4章13-18節
イースター
聖書はよくわからない。もっと詳しく書いてほしかった、なんて思うことがよくある。もっと科学的に書いてくれたら信じられるのに、なんて思うこともある。しかし当時の人達が持っている知識、特に科学的な知識は、私たちが持っている知識とはずいぶん違っていただろう。当時は地球が太陽の周りを回っているなんて考えている人はいなかっただろう。そう考えると私たちを納得させてくれることが書かれていない、違う書き方になっているとしても仕方ないかなとは思う。今の知識を持って、これはおかしいじゃないか、ということもいろいろあるけれども、当時の人が何を伝えようとしているのか、ということを聞いていくことが大事なのではないかと思う。
そしてよくわからないうちの一つが復活だ。イエスは金曜日に十字架につけられ日曜日に復活した、と聖書に書かれている。なので日曜日の朝にイエスが墓の中からむくむくと起き上がってきたのだ、と何となく思っていた。本当にそんなことありえるのだろうかと思いつつ、あまり真剣に考えないようにしてきた。
聖書に書いているんだからそうなんだろう位に思っていたけれど、聖書では復活して弟子たちに現れたというイエスの姿もいろんな書かれ方をしている。魚を食べたとか十字架の後を触ってみなさいと言われ、生前の肉体がそのままあるかのように書かれているかと思うと、一方戸を全部閉めているのに家の中に入ってきたり、イエスだと気付かないで話しをしていたのに、イエスだと気付いた途端見えなくなったり、まるで幽霊のような肉体のない存在のように書いてあったりする。
そしてこの手紙を書いたパウロは、恐らく十字架で処刑される前のイエスには会ったことはないと思うけれども、キリスト教会を迫害し、教会の人間を捕まえる仕事をしているときに復活のイエスと出会ったという。しかしその出合い方も、光に照らされて声だけが聞こえたという風に書かれている。そこにはパウロだけではなく何人かいたようだけれども、それがイエスだと分かったのはパウロだけだったようだ。
私たちが誰かに会うと言うとき、その相手は誰の目にも見えるし、誰もが触れることもできる、という存在として会う。しかしパウロが復活のイエスに出会った時、というのはそういうものとは明らかに違っているようだ。
弟子たちの復活のイエスとの出合いとは、墓からむくむくと起き上がってきて町の中を歩き回って、町の誰もが目撃した、というようなものではないのだろう。目には見えない形で、言わば心の中で出会う、声を聞く、そんな出合いなのだろう。
しかしそれは出会いなんていうよりも、ただの妄想か幻想なんじゃないかという気にもなる。しかしその出会いは、キリスト教会を弾圧していた者を、逆にキリストを自分から伝えるように変えてしまうという出会いであり、イエスの十字架での処刑後、イエスの弟子だったと言うことで逃げ隠れしていた者を、今度は大胆の宣べ伝えるようにさせる、そんな出会いだった。
死者
このテサロニケの信徒への手紙は、かつてキリスト教会を迫害していたパウロが、復活のイエスと出会い、今度は自分がキリストを伝えるようになり、各地に教会ができ、その教会へ宛てて書かれた手紙の中の一つだ。
当時テサロニケの教会の人たちにとって心配なことがあった。それは死んでしまった人たちのことであった。というのも、この手紙が書かれたころにはイエスの再臨はもう間近のことと考えられていたようだ。パウロも15節にあるように自分が生きている間にイエスがまた来られると思っていたようだ。テサロニケの教会の人たちもその希望をもっていただろうと思われる。
イエスがもう一度来られることを待ち望んでいたが、待ち望みつつその前に死んでしまったらどうなるのかを心配し、実際死んでいく者たちもいたのだろう。もう一度イエスに会うという希望を持って生きているのに、その前に死んでしまうといったいどうなるのか、それは神に見捨てられたということなのか、そうだとしたら、イエスが来るのが早いか、自分が死ぬのが早いか、なんてことになりとても安心して生きていられない、そんなことを心配していたようだ。
悲しむな
しかしパウロは、イエスが死んで復活されたように、「眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」「神はイエスをとおして、眠った者たちを彼と共に導き出してくださるであろうからである」(岩波訳)という。イエスが復活させられたように、神は眠った者たちをも復活させてくださる、という。だからすでに死んだ者たちのことを神は放っておかれるわけではないのだ、たとえイエスの再臨の前に私たちが死んだとしても同じことだ、だから嘆き悲しむ必要はない、と言う。
主が来られる日
そしてイエスの再臨のときにはこんなふうになる、と話しをする。主が来られる日、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から下って来られる、と言う。どんな号令、どんな声、どんなラッパの音なのだろうか。
その時、キリストに結ばれて死んだ人たちがまず最初に復活し、それから私たち生き残っている者が空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられる。なんという光景か。その時この体も持ち上げられるのだろうか、なんて思う。単純にこの言葉どおりになるのか、それとも何か象徴的な言い方なのかよく分からないが。
この「引き上げられる」という言葉は、ひったくられる、というような言葉だそうだ。神がひったくっていく、というのだ。神が一方的に連れて行く、一方的に引き上げる、というのだ。神は私たちを罪の束縛、すべての束縛から引き上げられるのだろう。
共にいる
このようにして、私たちはいつまでも主と共にいることになる。いつまでも主と共にいるようになるため、またそのためにイエスはまた来られるのだ。
だからその日には、死んでいようと生きていようと、どちらにしても再び来られたイエスと出会い、いつまでもイエスと共にいることになる。だから心配するな。悲しむな。既に眠っている者たちのことも、自分がこれから眠りにつくかもしれないということも心配する必要はない。どちらにしても私たちはいつまでも主と共にいる、主イエスと共にいるようになるのだ、だからその言葉によって励ましあいなさいとパウロは語る。今はいろいろな苦しみ悲しみがある、しかしその日には神が私たちを歓び迎えて下さるのだ、だからその時のことを思い希望を持って生きていこうではないか、と言う。
「主は、私たちのために死なれました。それは、私たちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためなのです。」(5章10節)
やがてイエスが再臨される時、私たちはイエスと共にいることになる、ばかりではなく、今すでに私たちは主イエスと共にいるというのだ。
私たちが主と、つまりイエスと共にいるために、イエスは死んで復活された。そのためにはむしろ肉体がない方が良かったのかもしれないと思う。肉体をもって復活したのならば、その肉体の見えるところでしかイエスに共にいることはできない。しかし肉体のないことで、どこにいても、誰とでも共にいてくれることができるのだろうと思う。
ひとりにしない
そのようにしていつも共にいてくれるイエスはどんな方なのか。
新生讃美歌431番「いつくしみ深き」は端的にイエスのこと述べている。
「いつくしみ深き共なるイエスは 罪とが憂いを 取り去りたもう」方。
「いつくしみ深き共なるイエスは われらの弱きを 知りて憐れむ 悩み悲しみに 沈める時も 祈りに応えて 慰め」てくれる方。
「いつくしみ深き共なるイエスは 変わらぬ愛もて 導きたもう 世の友われらを 棄て去る時も 祈りに応えて 労」ってくれる方。
最近、この世の友わられを棄て去る時、という言葉が気にかかっている。世の友から棄て去られる時ってのはどんな時なんだろうか。何かとんでもないことをしでかした時かもしれない。そんな時私たちはひとりぼっちになってしまう。誰からも相手にされず世界で独りぼっちというのはとても耐えられそうにない。
しかしたとえそんな時でさえ、イエスは私たちをひとりぼっちにしない、そんな時にも労ってくれる、と言うのだ。
そのためにイエスは復活したのだろう。私たちが見えない形で、なかなか気付かない形で、でもいつも復活のイエスは私たちと一緒にいてくれている。
先に召された方たちも、そのイエスと共にいることを信じて生きてきたことだろう。どんな時でもひとりぼっちにしないというイエスと共に生きてきたのだろう。そして今もイエスと共におられるのだと思う。
私たちもこの復活のイエスと共に生きていきたいと思う。決してひとりにしない、そのイエスと共に生きたいと思う。