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礼拝メッセージより
「痛みを抱えて」 2013年3月24日
聖書:ガラテヤの信徒への手紙 6章11-18節
出合い
使徒言行録に、この手紙を書いたパウロがかつて教会を迫害していたと書かれいている。エルサレムの教会が迫害され、エルサレム教会の指導的な立場にいたステファノが殺害されたときには、その殺害に賛成し殺害現場にもいたと書かれている。そしてその後も次々と教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。しかしそうやって教会を荒らし回っている途中でイエスと出会う。その時イエスは十字架で処刑された後で、イエスとどういうふうに出会ったのかはっきりとはしない。天からの光に照らされ声が聞こえたと書かれているけれど、その声も周りに人も聞いたと書かれていたり、パウロだけに聞こえたと書かれていたりする、そんな不思議な出合いだったようだ。しかしそれがパウロにとっての復活のイエスとの出合いだった。
その時からしばらく目が見えなくなったようだが、それまでキリスト教会を迫害して教会の人を牢屋に引っ張ってきていたパウロが、それからはイエスがキリストであると広めるようになった。
それまでは熱心なユダヤ教徒で、一所懸命に律法を守ってきていたんだろうと思う。正確には守ろうとしてきたんだろうと思う。恐らく、真面目に厳格に守ろうとしてきたんだろうと思う。しかし守ろうとしても守れない、という思いを持っていたんじゃないかと思う。律法を守ることこそが唯一の生きる道としてそこにすがりついていたんじゃないか。だから律法を軽んじていると見えるイエス一派に敵対心を持っていて、そういう輩を一掃しなければ行けないと一所懸命に迫害していたのだろう。そもそもイエスを十字架につけて処刑した時にも、パウロは処刑する側にいたはずだ。
しかしそうやって教会を迫害しても、やっぱり何か足りないものを感じていたんじゃないか、律法を守ることによる安心感とか満足感とか喜びとか、そんなものを感じられないできていたんじゃないかと思う。ステファノを殺害した時や、教会の人たちを捕らえていくことを通して、イエスに対する思いが変わってきていたんじゃないか、そして復活のイエスとの出合いへと繋がってきたんじゃないかと思う。それはほとんどパウロの心の内面での出来事と言っていいようなことのようだけれど、それまで堰き止めていたイエスへの思いが一気にあふれ出したようなことだったんじゃないかと思う。律法を守ろうとしても守りきれない、満足感も安心感もない、イエスの魅力、イエスを信じる者とたちへのあこがれ、そんな思いを、今まで律法を第一として生きてきたことやユダヤ教の社会の中で生きていて、そこを飛び出すとどうなるのかというような思いなどが、堰き止めていたんじゃないかと思う。イエスに対する思いを吹き払うためにも教会を一所懸命に迫害していたのかもしれないと思う。
しかし復活のイエスとの出合いを境に、パウロは自分の思うところに従って生きるようになってきたんじゃないかと思う。イエスに従っていきたいという思いに正直に生きるようになったんじゃないかと思う。
しかしそこに立ちはだかるのがイエスの十字架だったんだろうと思う。イエスに従っていきたい、しかし自分はイエスを十字架につけた側の人間なのだ。言わば自分が十字架につけたようなものなわけだ。パウロはその思いをずっと抱えて生きていってるような気がする。
律法
そんなパウロだったからだと思うけれど、ユダヤ人キリスト者が、クリスチャンとなるためにはまず割礼を受けないといけない、ということを教えていることに対して危機感を持ち、また反発している。ガラテヤの手紙はどうも一貫してそのことを主張しているようだ。
パウロは自分が必死に律法を守ろうとしてきたからこそ、守ることはできないということを痛感しているのだろう。ただイエスの十字架によって、十字架につけた自分をも赦されている、愛されている、ただそのことによって救われている、その強い気持ちがあるようだ。
だからこそ、イエスを信じつつ、尚も割礼を受けなければならないと主張するユダヤ人キリスト者たちのことが我慢ならなかったのだろう。律法を守ることでは救われない、なのに律法の象徴である割礼を受けさせるとは何事か、ということだろう。
当時のローマ帝国ではユダヤ教は公認されていたそうだ。ローマ帝国では皇帝崇拝をしなければいけないことになっていたけれど、ユダヤ教であるならばしなくてもいいということになっていたらしい。キリスト教がユダヤ教の一派ということであるならば社会的にも受け入れられるという面もあったらしい。
割礼を受けるということはユダヤ教であると認めることにもなるので、そうすれば社会からも認められる、余計ないざこざを起こさないためにも割礼を受けておけばいい、というようなことも言われていたのかもしれない。
ユダヤ人キリスト者にとっては割礼を受けることがまずクリスチャンになる条件だということになれば、もともと割礼を受けている自分達はちょっと優越感も持てたかもしれない。
パウロは、そんなふうに迫害されたくないという理由や、誇りたいという理由で、あなたたちに割礼を受けさせようとする人がいるけれども、でもわたしには、主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはありません、と語る。あなたたちには、ではなくて、わたしには、というのが面白い。
イエス・キリストの十字架のみが誇りである、ということは自分自身の中には誇りはない、ということだ。割礼を受けている、律法を守っている、そんな自分自身の誇りは何もないということだろう。こんなものを持っている、こんなことが出来る、そんなものは誇りではないということだろう。
しかしパウロにとってイエス・キリストの十字架は、イエス自身を自分たちがが処刑した、教会を迫害してきた、自分がそれまでとんでもない間違いを犯してきた、ということの象徴でもある。
先日自分の子どもを殺して自分も死のうとしたという母親のことがニュースで流れていた。詳しいことは聞かなかったけれど、この母親はこれからどういう思いで生きていくのだろうと思った。どれほどの痛みを抱えて生きていくのだろうかと思った。
パウロもそれと似たような思い、痛みを抱えていたのではないかと思う。
でもその自分をイエスは受け止めてくれている、この自分を赦してくれている、愛してくれている、この自分と今も共にいてくれている、そんな喜びがあるからこそ、イエスの十字架が喜びなんだろうと思う。
でもやっぱりイエスの十字架は喜びと同時に痛みでもある。それは誇りではあっても、決して他の人に自慢できるような誇りではない。俺たちがイエスを処刑したんだ、教会を吐くがしてきたなんて自慢できないだろう。イエスの十字架は決して自慢できない痛みを持った誇りなんだろうと思う。
パウロはそんな痛みを抱えて生きていくと宣言しているような気がしている。十字架で痛みを経験したイエスが共にいてくれているのだから、自分もその痛みを抱えて生きていく、と言っているのではないか。